温む円環 - 2/2

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 窓際の寝台は、三基ある補修用寝台の中でももっとも競争率が高かった。
 どうせ眠ってしまうのだからわからないにしても、明るく風通しのよい環境に身を置くのは気分が良いものだ。かといって、他の寝台がことさら居心地悪いとも言い難い。陽の光が眩しすぎて、気が落ち着かない者も中にはいるだろう。
 「……落ち着いたかな」
 丸椅子に腰かけて、黒髪の青年が補修の様子を見守っていた。カチ、コチと時計の針が動くのにも似た音が枕元の装置から響き、静まり返った室内の空気を刻む。
 ひとり分の寝台の上で、胎児のように背を丸めているのは黒衣に身を包んだ大柄な男だった。石膏を刻んだような鼻梁を細かな塩の粒がまたぎ、長い睫毛は濡れて互いに身を寄せ合っている。手拭いをしっかり握りしめる右手の中指には、波型に並ぶ宝石をあしらった指環がはまったままだ。
 青年――徳田秋声は男の目元にかかる白茶の髪をそっとかき上げる。指の温もりを分け与えるように、じっくりと梳き通す。
 かつて与えられたものを返すように。

 その指環が黒衣の男、川端康成に与えられたのはほんの十日ほど前のことだった。使い慣れた二又の槍を、白銀に輝く多節鞭に持ち替え、彼は新しい得物に慣れるべく、それまでよりも侵蝕度合いの浅い書物に挑み、幾度もぼろぼろになって帰ってきた。
 彼が新たに振るうことになった鞭の形は、彼の恩師である男が扱うそれとよく似ており、恐らくはその姿を模範としようとしたのだろうが、その試みはうまくいっていないようだった。同じ武器でも扱う者が違えば刃先が空を切る速度も、何もかもがまったく別のものになる。使い手の身体の筋肉のつき具合や、敵に対する反応速度はひとりひとり異なるからだ。
 そして扱う武器の種類が変われば、戦いに臨む際の構え方や立ち回りもすべて、一から身につけ直しとなる。それまでやり過ごせていた敵の攻撃が弾き返せなくなり、久しぶりに痛手を負うことで、改めて気を引き締めて戦いに臨もうと決意する者もあれば、ままならなさに一時的に腐ってしまう者もある。
 彼の身をさいなんだのは、途方もない孤独だった。かつて家族を相次いで亡くし、大人になってからは彼の恩師や友人達が此岸を去っていく。一本ずつ四肢をもぎ取られていくような絶望は容易にはうかがい知ることはできない。自身もまた、彼を置いていく側の人間として数えられていただろう。
 どうせ未熟者の手によるものだからと、読んですらもらえない原稿用紙。
 書き上げた喜びを伝えようにも、周りに誰もいない寂寞。
 もちろん、かつての人生がそういった無力感や虚しさで満ちていたわけではない。目の前で泣き疲れて眠る彼にも、安らぎや幸福で胸を温めた日があったことだろう。図書館の蔵書で見つけた写真の、五匹の仔犬を抱える彼の口元にうっすら浮かんだ、どこか得意げな笑みを思い出す。
 力不足に苦しむのは、誰もかれもが通る道だ。そういえば自分もそうだった、と男の髪を撫でるのをやめ、秋声は手のひらを広げる。黒い手甲に覆われ、大きく開いた指は小刻みに震えていた。その震えごと、固く握り込む。
 初めて弓を引いた日、今でこそ危なげなく扱えるようになったけれど、あのときは失敗すれば死んでしまうという焦りと、自身の無力さに息詰まっていた。わけもわからず新しい身体で目覚めさせられて、状況を把握する暇もないまま有碍書に放り込まれて、死を恐れるのも思い返せば妙な話だ。羊のような化物の、大きく湾曲した角の尖端が鼻先に迫るのに、これに刺し貫かれるのはいやだと反射的に背を退いたのは、生存本能がすでに身についていた――降ってわいた二度目の人生が、ほんの数分で尽きるのは惜しいと、そんな考えが芽生えていたからだろう。
 それから月日を重ね、幾多の戦いを経て、懐かしい人々との再会を次々と果たした。その中に、彼がいた。
 「顔を合わせれば、ちょっとは何か思い出せると思ったのにな」
 自分の書いたものを絶賛してくれ、晩年には戦火を逃れるために近所に越してこないかと勧めてくれたらしい彼のことを、まったくと言っていいほど覚えていなかった。その名前にどことなく引っかかるものを感じた、その程度だ。
 知っているはずなのに思い出せない。旅先で忘れ物をしてしまって、取りに行こうにもその地に足を踏み入れられない、そんなもどかしさを抱え、久闊を叙する彼の手紙に恐縮しながら返事を書いた。数日後、手紙の礼を述べに訪ねてきた彼に記憶のない不義理を詫びると、
 『またこうしてお会いできただけで、私は充分に嬉しいのです』
 無垢な女学生のように、彼ははにかんでみせたのだった。
 自分の中で川端の存在が、他の友人知人の枠から一歩抜きん出たのは、おそらくはその笑みのせいだ。厚く降り積もった雪の合間、わずかに表れた土のおもてに、ようやく顔を覗かせた双葉のようだった。
 茎を伸ばし、葉を茂らせ、やがて花開くまで。また種を生じて枯れゆき、新たに伸び出た芽を引き続き見守りたい。自分と違って今の彼はいっぱしの大人だから、降りかかる火の粉くらいは自分で払えそうだけれど、それでもいつ助けを求められてもいいように、邪魔にならない程度に側にいたい。
 窓の外はすっかり暮れて、茜色の夕陽が白いシーツと、色合いの淡い男の頬を燃やすように照らしていた。規則正しい秒針の音も、いつしか黙り込んでその眠りを見守っている。もう少し経てば、この補修室にも夕餉の香りが漂ってくるはずだ。
 秋声は音を立てないように丸椅子を立った。寝顔をずっと見守られていたとあっては、彼も少なからず気まずいだろう。さりげなく痕跡だけを残して去っていくのが粋というものだ。自分のときも、目覚めたら自分のものでない手拭いを、しっかりと握りしめていたのだった。
 底の薄い草履は足音を忍ばせるのに具合が良かった。どこかで夕飯時まで暇を潰そうと、そっと寝台から遠ざかる。長く伸びた自分の影が足元を翳らせ、近くにあった事務椅子の車輪を隠していた。
 がつ、と足袋の爪先が硬い樹脂製の車輪を蹴る。
 「痛った……」
 思わず呻いた声に、背後で寝台の軋む音が重なった。
 わざとでないとはいえ、存在を明かしてしまった。逃げようにも足の指がじくじくと痛んで一歩も歩けない。さらに布団を除けたのだろう衣擦れの音がして、手遅れであることを知らしめる。
 うずくまる背中に、雪駄と床の擦れる音が近づく。粉雪を思い起こさせる声が降り注ぐ。
 「――徳田さん」
 すぐに答えられなかったのは、自身のみっともなさを恥じたためだ。首だけそっと振り向いて、黒い単衣の裾と、そこから覗く足が自分の間近、床に引きずった羽織の裾を踏まんばかりの位置にあったのを認めて、たちまち暴れ出す胸を衣服の上から押さえる。
 白い足袋が一挙に距離を詰めた。彼はすぐ脇に回り込んで膝をつき、さすっていた足先を覗き込んでくる。
 「どうされました」
 「た、たいしたことないよ。ちょっと蹴つまずいて――あっ」
 先程よりも少し芯の通った、低い声に気を取られた隙に、手拭いを握らせていた大きな手が草履の足先へ伸びた。足袋の布地越しに、活力を取り戻したばかりの体温が伝わって、心の臓はいよいよ檻から出せとばかりに肋骨の内側で跳ね回る。彼と、戦闘以外でこんなに距離を詰めたのは初めてだ。
 川端の手は痛みを吸い取るように、そこをそっと撫でた。その所作ひとつとっても静かなもので、暴れているのは自分の鼓動ばかりだと思い知らされる。
 「悪かったね。眠ってたのに、邪魔をしてしまって」
 「いいえ……私の身を案じてくださったのであれば、むしろ詫びるべきはこちらのほうです」
 ご心配をおかけしました、とひっそりと言葉を締めくくると同時に、爪先を撫でていた手が止まる。手当てとはまったく良く言ったもので、この部屋にあるどれだけ強い塗り薬よりも、確実に痛みと痺れが鎮まっていく。ゆったりと語る声も、まるで麻酔薬のように働いていた。
 「手負いの獣など、もはやありふれた光景でしょう。にもかかわらず、こうして目を留めてくださるとは――」
 「それは、だって」
 君だから、と頭に浮かんでそのまま答えかけたのを、慌ててやめて口をつぐんだ。補修中の枕元に付き添うなんて、他の者相手にはまずしないことなのも事実なのだが、その答えを今、この状況で、口にするのは適切でない気がしたのだ。
 ではその代わりに、どう答えたらいいものだろうか。心配だったのは確かだが、それをそのまま伝えるのも違う気がした。彼の指摘した通り、同じ会派の面々が傷を負うところを、自分は人一倍多く目にしている。もちろんそれに対して心がまったく動かないわけではないが、全員をいちいち気にかけていたら身がもたないのも事実だ。
 「……お返しだよ。君だって、僕の枕元についていたじゃないか」
 苦しまぎれに返すと、川端の瞳が目に見えて揺らいだ。む、と唸ってきまり悪そうに眉をひそめるさまがまさに、図体ばかり育った子供のそれだ。狙ってそうしているわけではないのだろうけれど、彼のそうした態度そのものよりも、翻弄される自分自身に腹を立てる分量のほうがきっと多い。
 「それとおんなじさ。……行こう、そろそろ夕飯だよ。お腹空いたでしょ」
 足先はまだじわりと痺れていたが、歩くのに障りはないように思われた。むしろうずくまっていたせいで、張った太腿やふくらはぎのほうが問題だ。準備運動でもするように脚を曲げ伸ばししていると、ひそやかな声が背後でつぶやいた。
 「私と、同じ――」
 「どうかした?」
 川端はゆっくりと立ち上がった。翳りはじめた夕陽を背にして、常人なら思わず怯んでしまう強いまなざしが一瞬だけ、秋声の瞳を射程にとらえる。しかしそれはすぐに伏せられてしまって、隠すもののない口元が言葉を選びあぐねて、噛みしめては開くのを繰り返す。
 「……新たな途を与えられて、戸惑う姿を……その隣に寄り添いたいと、そう、私は願いました」
 彼ならではの言い回しを、少々時間こそかかるものの、秋声は今ではすっかり理解できるようになっていた。訥々と語られる言葉を噛みしめながら、そういえば手拭いを握らされていたのは刀を扱い始めて間もない頃だった、と思い出す。どうにか最深部の敵を討ち果たせたものの、自分ひとり集中攻撃をくらって、ずたぼろになって帰ってきたのだ。
 「一人の道行きは心許なくとも、二人であれば、あるいは……その供が、私であればよいと」
 正直、みっともない姿だったとは思う。それでもからかったりなどせずに、彼はそっと気遣いを施してくれた。見守っていてくれた。
 「――そのように思ってくださっていると、そう、自惚れてもよいのでしょうか」
 言葉を切った川端は、ふたたびまっすぐに秋声を見つめた。射抜くような強さは抑えられているものの、炉の内側を覗いたように、瞳には確かな熱がこもっている。生前から抱いていたという、敬愛の念以上の想いが彼の中で燃え盛っているのが窺い知れた。
 今ばかりは彼の、長い前髪に感謝した。片眼だからかろうじて、相対していられるのだ。両眼がさらけ出されていたら、きっと平静では済まされない。
 跡形もなく、焼き尽くされてしまう。
 もはや観念してうなずくしか、自分のとり得るすべはないのかもしれない。しかしその後、自分たちの位置どりがどう変わるのか、それを受け入れられるのか、秋声はそれを恐れていた。自分たちの得物が形を変えたように、いつまでも同じ状態であり続けるものなど、きっとないのだ。
 「……失礼を……困らせるつもりでは、ありませんでした」
 お忘れください。ひっそりと告げて軽く頭を下げ、川端は秋声の隣を通り過ぎる。ひんやりとした花の香りが一瞬だけまとわりつき、ほどなく霧散する。
 とっさに手を伸ばしていた。軽く引っかけただけの枯茶色の羽織、その裾を、迷い子のように中途半端につまむ。邪険に振り払われることはないと確信していても、その手を直接つかんで引き留めるのにはためらいがあった。
 川端の歩みがぴたりと止まる。広い肩越しに、強い圧のこもった瞳がじっと秋声をとらえる。何かしら反応を返す気力すら削いで、何もできないことをいたたまれなく感じさせる。気の弱い者なら泣き出してしまうと評されるのも無理もない。
 現に秋声も、彼のまなざしに非常な息苦しさを覚えていた。呼び止めなければ後悔していた、だからこの選択は間違っていない、その一心で踏みとどまる。
 「……?」
 「――ごめん、煮え切らなくて」
 川端は身体ごと秋声に向き直った。その拍子に、羽織の裾にすがっていた指がはらりと解ける。その代わりとでも言うように、秋声よりもひと回り大きな足が一歩、距離を詰める。
 「どうしても僕は、自分に自信が持てなくて……だから川端さんが気にかけてくれるのも、嬉しいんだけど、不安になるんだ」
 師や兄弟子のような華やかさとは縁のない、地味な自分は、世界に名を轟かせたほどの彼にはふさわしくないのではないか。こんな自分が、彼に想いを向けるべきではない――そんなことはない、と川端は否定するだろうけれど、どうしてもそんな考えが拭えないのだ。
 むせ返りそうな熱のこもった視線の圧が、ふっと緩んだ。さすがに呆れられたかと恐る恐る様子をうかがう秋声をよそに、川端は抱えていた襟巻きを己の首元に雑に巻きつける。炉心のような瞳は、長い睫毛にその勢いを減じられていた。
 「……では、」
 さらに一歩、川端が歩を進める。
 「その憂いごと、私に委ねてはいただけませんか」
 彼らしくない所作は、どうやら両手を空けるためだったらしい。
 頭半分低い秋声に合わせるように背をかがめて、がら空きになった両手が、秋声の手をそれぞれしっかりと捕まえる。重たげな得物にも負けない大きな手のひらと長い指から伝わる体温は、白い肌に見合わぬ熱をたたえていた。確かな温もりが心地良く、つかまれた指先を曲げて、川端の筋張った硬質な指を思わず握り返してしまう。
 薄暗がりの中でも、目の前の男が頬をほころばせたのがわかった。明確な返事こそしていないが、きっと自分の想いが受け入れられたと感じ取ったのだろう。それでも、奥ゆかしく無垢なその微笑みに、思い違いをされたままでもいっそ構わないような気にさせられる。
 ぎこちない表情なのは百も承知で、秋声は務めて笑顔を作った。温度の異なる指がなおもしっかりと両の手をとらえ、右手の中指に嵌ったままの指環までもが、ふたり分の熱を受けてほんのりと温かい。
 やがて、食堂へ急ぐ足音が廊下を騒がせ始めるまで、ふたりはずっとそうしていた。