温む円環 - 1/2

 私には、お慕いしている方がありました。
 その方は常にまっすぐに背を伸ばして、私たちの前に居られました。激しい風雨に晒されても、いつの間にやら再び起き上がっている、麦の穂のような方でした。その背を追って、私はこの道へ踏み込んだようなものでした。
 一度は足を踏み入れた黄泉の国から舞い戻り、ふたたびお会いできたその方は、当時のことをあまり記憶にとどめておられないようでした。それでもなお、迷い悩む者を見て見ぬふりなどできぬ優しさ、いかなる者に対しても分け隔てなく接する懐の広さは往時と変わらず、私は、この思わぬ二度目の生をようやく現実のものとすることができたのでした。

 新たに私たちに課せられた使命、我々の書き記したものたちを侵す魔物を祓う戦いにおいても、その方は大変果敢に、立ち向かっておいででした。身の丈ほどもある弓を引くその背にはやはり、若竹のおもむきがあり、捲られる頁に一点の曇りも許さない、そういった気概が陽炎のように放たれておりました。
 この国において、弓というものは神事にも用いられてきた一面もあります。弓を得物とする方々は他にもおられましたが、射干玉の髪をなびかせ、いっぱいに引いた腕に必中の気迫をみなぎらせるその姿は、神代の物語を想い起こさせるほど清らかなものでありました。
 ですがその一方で、その方はときおり、深い苦しみに苛まれてもおられました。師を同じくした兄弟子の才をうらやみ、どこまで努力を積めば己は報われるのかと、悩み悶えておいででした。普段はそういった昏い思いに蓋をしていても、心が弱ればそれを抑える力も失せてしまうものです。戦いで傷つき、手当てを待つ間、自身を責めるようにこぼされていたのを、何度目にしたことでしょうか。
 そのたびに私は、己に何ができるのか、役に立たない自身を苦く噛み締めておりました。
 その筆が紡ぎ出すものを、そして、悩みながらも日々を堅実に生きようとするその姿を、かつてと変わらず――これまで以上に慕わしく思えど、私の想いは、かの方の背負う荷を取り除く助けに、はたしてなっていたのでしょうか。
 各々戦うための思いに、新たな形を授ける指環。ある日、それがかの方へ渡され、かの方は大振りな弓のかわりに、一振りの刀を振るうようになりました。迷いのない太刀筋は、昏冥をさまよう魔物へ確実に引導を渡していくかわりに、風に舞う木の葉の身軽さをかの方から奪ったのです。
 刀というものは、しっかりと地に足をつけなければ、刃に力が乗りません。不慣れな得物を扱う中、それまでに類を見ない深傷を負うことも、増えたようでした。

 戦さ場から還り、手当てを受けるよう指示を受けた私は、補修室を訪ねました。常であれば静まり返っているはずのその部屋は、重く沈んだ哀しみに満ちていました。奥の寝台がカーテンで区切られており、その向こうから高く低く、むせび泣く声が漏れ聞こえていたのでした。
 いつもならば特段気にかけることはなく、泣いている者を刺激しすぎないよう、一つおいた寝台にそっと潜り込むところでしたが、その日はどうにも見過ごせず、それどころかすすんで首を突っ込みたくなって、足音を潜めてカーテンの向こうを覗きました。
 白い背中が、丸まって殊更小さく見えていました。
 しゃくり上げ、肩が震えるたびに、黒々とした髪が枕に擦れました。
 寝台脇に設置された補修のための機械は、すでに零目盛を指していました。
 この世のあらゆる哀しみが、大人ひとり載せるのがやっとの、小さな寝台に押し寄せていました。
 私は足音を立てぬよう、そっと窓際に回り込んで、寝台脇に置かれた丸椅子に掛けました。くしゃくしゃに崩れた顔を隠すように、鼻先で組まれた手に、懐を探って手拭いを取り出し、握らせました。
 「……誰?」
 薄く開いた瞳はすっかり融けていて、ものを映す余力もなかったのでしょう。
 迷子が母を求めるがごとき声に、私は答えませんでした。かわりに、乱れた髪を整えるようにして、何度も撫でてやりました。健やかな黒髪は、頭皮の温かさを私の指に残して、滞りなくすり抜けていきました。
 泣くという行為は、身も心も急激にすり減らすものです。脆い自我を一度粉々に砕き、まどろみのうちに練り直すものです。蛹が羽化するための、避けることのできない一過程なのです。
 いつしか嗚咽はやみ、あとには安らかな呼吸ばかりが、次々生み出されていきました。枕に半分埋まった寝顔は、一切の強張りを解いた、いとけないものでした。
 そこでようやく、私はかの方が、自分よりもうんと若い心身を与えられて生まれ落ちたことを実感したのでした。

 私の、かの方への想いが、その一時のために揺らぐことはありませんでした。人の在り方はその老若にはまったく関わりはなく、むしろ若い目線から得られるものにこそ、学びがあると私は考えておりました。
 ただ、かの方が今生で触れるあらゆるものを、常に隣で見届けたい。そのような想いが、その日を境に私の中で芽吹いたのでした。