ペトリコールの誘い

 当世の気候の気まぐれなことは、自我の芽生えたばかりの幼子に通じるものがある。雲ひとつ見当たらなかったはずの青空がたちまち灰色のベールに覆われ、それはやがて鉛色の緞帳にとって代わり、かんしゃくを起こしたように雨粒の弾幕が地を打ちすえる。そのくせ、ひとしきり降り注いで満足したとみえると、何事もなかったように空を拭い去って、元通りの青空を覗かせるのだ。
 目下閉館中の帝國図書館の敷地内へ、まっすぐ飛び込んでくる人影があった。錠の下りた正門をためらわず走り過ぎ、裏の職員通用口を目指す。手提げの紙袋を濡らさぬように胸に抱え、閉じたままの傘をつかんで、乱れた浴衣の裾から白いくるぶしを見え隠れさせる。
 息を荒げながら通用口の鍵を開け、彼は建物の中に転がり込んだ。

 通用口へ続く廊下にモップ掛けをしていると、ふと空気が大きく膨らむ気配があった。次いで、バタンと古い造りの扉が性急に閉じられる音が響く。
掃除の手を止めて、音のした方へ川端が足を向けると、扉に背を預けて息を整える者の姿があった。
 色も布地も薄い浴衣はぐっしょりと濡れ、肌の色を透かしている。短い黒髪からぽたぽたと雫が滴り、床材を色濃く染める。川端よりも頭半分小さい、しなやかな体躯に覚えがあった。
 「……徳田さん、」
 川端の声に、弾かれたように彼は――徳田秋声は顔を上げる。胸に抱えた紙袋と川端の顔、それから濡れそぼった己自身を交互に見やって、何やら言いたげに唇を開く。見た目には薄いが柔らかなそこからは、今は血の色が失われていた。
 「かわ――」
 おそらく自分の名を呼んでくれようとしたその声は、小さなくしゃみに取って代わられてしまった。身震いしながら、紙袋を抱えた腕を、それ以上濡れないようにと伸ばす。もう片方の手は襟元をつまんで、肌に張り付く浴衣地を引き剥がしていた。さぞかし不快なのだろう、すっきりと整った眉をいつも以上にしかめている。
 この状況で何をするべきか、川端はしばし思案ののちに、徳田の手から紙袋を受け取った。ほとんど濡れていなかったそれは、大きさのわりにずっしりと重い。慌てて、両手でしっかりと捧げ持つ。
 「それ、お遣い物なんだ」
 まだ乱れた息のまま、徳田は館内の空気に溶けそうな声で告げた。
 「尾崎さんですか。代わりにお届けしましょうか」
 「いいかな。さすがにこの格好じゃ、先生のところに行けないから」
 徳田の師である尾崎紅葉は、病に斃れた一度目の生での遅れを取り戻すかのように、当世で街に出回る甘い菓子類をことあるごとに求めていた。自分自身で買い求めることもあるが、もっぱらその欲に振り回されるのは彼のふたりの弟子であった。
 「風呂へどうぞ。着替えは、後からお持ちします」
 雨水の染み込んだ裾を絞っていた徳田は、川端のその言葉にはっと顔を上げた。白い頬にじわじわと血の色が戻っていく。緩んでしまった襟元を、握り込むようにして掻き合わせる。
 「……うん、ありがと」
 短い礼をささやいて通用口から程近い、大浴場へ駆けていく。よほど身体が冷え切っていたのか、ついぞその呼吸は整わずじまいだった。
 徳田の引き連れてきた、土埃と草いきれの混じったような香りが、彼の姿が見えなくなったあとも、淡く辺りに漂っていた。息を吸い込むたびに、鼻腔から入り込んだそれが血液に溶け込み、身を毒していくようだった。
 しとどに濡れたきめ細かな若い肌が、その内側から青白い光を発しながら眼前にさらけ出される。間近にある熱を引き込むかのように。
 館内はその中で暮らす者たちと、それから蔵書と、両方にとって最適な環境に整えられていたが、川端は先程から耳元に火照りを覚え始めていた。それは薄手の襟巻や夏生地の着物をものともせず、じりじりと肌を灼き、神経を侵し、骨の髄にまで染み渡ろうとする。
 ひとたび欲しくなると我慢のきかない性分は、新たな肉の器を得てもなお健在だった。なまじ若く頑強な身体であるぶん、余計にたちが悪い。相手がそんな自分よりもさらに年若い見た目で、瑞々しい肢体をほしいままにしているのがなおいけなかった。地味だ、華がないと彼は自嘲するが、まっすぐに伸びた背筋も無駄のない肉体も、その潔さだけで充分に好ましいものだった。
 体内にくすぶる熱を吐き出すようにひとつ息をつき、川端は傍らの階段に足をかける。今しがた駆けていった恋人の師の部屋も、ひと回りサイズの小さな着替えが何組か置いてある自室も、折しも同じ階に位置していた。

 居室を訪ねたのが愛弟子でなかったことに、尾崎紅葉は当初訝しげな表情を隠さなかったが、遣いにやった弟子がずぶ濡れで帰ってきたことを告げると、それは難儀であったな、と眉を下げたのには少々驚かされた。ずいぶんと傍若無人な印象があったが、それでも師としてきちんと弟子たちのことを慮っているのもまた事実だった。
 「あれは小さい頃、身体が弱かったというからな。今生では気にせずともよいことかもしれぬが、我のために寝込まれたとあっては寝覚めが悪い」
 「そう……ですね」
 「汝からもよく見ておいてやってくれ」
 「……は」
 他愛のない世間話かと思っていたところに水を向けられて、心の臓が跳ね上がる。
 豊かな稲穂色の髪を揺らして、尾崎はにんまりと笑ってみせた。
 「よろしく頼むぞ」
 その一言がはたして今回のことだけを意味するのか、それとももっと深い意味をもつのか、図りかねるまま自室に帰り着く。徳田との仲はそれこそ、一番に信頼を置いている盟友くらいにしか打ち明けていないが、仮に尾崎に見抜かれていたとしたら、
 「願わくば、同じ会派にならないよう祈りたいものですね……」
 血のつながりこそないものの、娘婿の気分を否が応でも味わされる。どこまで知られているのか、気が気でないままに手元を狂わせてしまいかねない。
 自室でタオルと徳田の着替えを用意して、ふたたび一階へ降りる。大浴場の扉をそろりと開けると、硝子戸の向こうに肌色の影がはっきりと見えた。からからと扉の開く音とともに、白い湯気が脱衣所へと流れ出る。歩を早めて脱衣カゴに近寄るのとほぼ同時に、
 「あ、川端さん」
 徳田が肩から上だけを扉からひょいと覗かせた。温まって人心地がついたのか、その面差しは柔らかい。ついでに髪も洗ったのか、前髪を後ろに流して白い額をあらわにしていた。無防備な表情に、忘れかけていた熱が埋み火のように湧き立つのを感じながら、大判のタオルを差し出した。
 「すみません、遅くなりました」
 「いや、僕のほうこそ、なんだか使い走りさせちゃって悪かったね。紅葉先生、何か言ってた? 遅いって怒ってなかったかな」
 「いいえ、特には……雨に降られて帰られたのを、心配なさっていましたが」
 「そっか。でもあとで一応、顔を出しておこうかな」
 着替えにと持ってきた浴衣は、先のものとはうってかわってきっぱりと濃い藍色で、徳田の白い肌をよく引き立てた。川端と言葉を交わしながらてきぱきと袖を通し帯を結び終えて、濡れた髪を無造作にタオルでかき回している。襟足から首筋を幾筋も雫が伝って鎖骨の窪みにとどまり、あるいは浴衣の襟元に吸われて消える。
 雨の匂いが、冷えた肌の陶器じみた質感が、明るい電灯に照らし出された目の前の光景に、多重露光のように重なった。
 「もう、寒くはないですか」
 くしゃくしゃとタオル越しに髪をかき混ぜる徳田の手が、ふと止まった。水気の取れた健康そのものの黒髪に手を伸ばし、頭を撫でるように指で梳いてやる。目を閉じて、耐えているふうだった徳田の身体から少しずつ緊張が解けていき、川端の着物の胸元が軽く引かれる。
 「――まあね」
 弓を引き針を操り、愛すべき文章を生み出す手だ。その手が今や、互いの距離をたやすく零にすることも知っていた。着物の生地越しに、かすかに温もりが伝わる。
 そして何度肌を重ねても、その清廉さが失われることはない。どれだけ深く暴いても、誰にも見せられない姿を明るみにしても。だからこそ、渇いた土に水を注ぎ込むように、際限なく欲しがってしまう。
 こめかみから後頭部へ梳き抜いた指先を、滑らかな頬へさりげなく伸ばす。そのまま半歩距離を詰めると、柔らかかった頬がひくりと強張った。
 「人が来るから、」
 「じきに夕食です」
 「だったらなおさらだめだって――」
 止めるのもきかずに、腕の中に閉じ込める。
 ひと回り小さな徳田の身体は、すっぽりと川端の胸元に収まってしまう。だめと言ったわりにはさしたる抵抗もなく、ただ両手のうちに包み込んだ小鳥のように、忙しない心音を伝えていた。
 ちょうど鼻先の高さに、艶やかな髪が細かな束をなしてあちらこちらに跳ねている。洗髪料のいかにも人工的な香りが鼻腔に流れ込む。
 「……雨の香が、」
 呟きに、徳田がついと顎を上げた。
 「ああ、あるね。夢中で走ってきたから気づかなかったけど、落ち着く匂い」
 「あなたが、引き連れて来られたので」
 「僕が?」煙色の瞳が丸く見開かれた。「身体洗っちゃったし、もう残ってないでしょ」
 「ええ、ですが」
 甘い香料の向こうに、あの有機的な土と水の香りを探るように抱き寄せる。華こそないが肌なじみのよい香りは、徳田によく似合っていると思った。この国ならではの季節の移り変わりと、古来からこの国に住まう者らしい、深い色をしたまっすぐな髪と象牙色の肌、凛とした眼差し。
 「よすがを求めずにはいられず」
 首元に浮き上がる血管が、川端の目の前でとくとくと脈打つ。頬を寄せると、よく温まった身体がぴくりと跳ね上がった。折悪しく廊下を何組かの足音が通り過ぎる。脱衣所の壁掛け時計は、夕食時にさしかかっていた。
 どちらも、本能に根差した欲求だ。腹と心と、あるいはもっと別の場所と、満たしたいことに変わりはない。
 じっと腕の中で息を潜めていた徳田が、川端の胸板をやんわりと押し返した。さすがに潮時か、調子に乗りすぎたかと従順に退いたところへ、
 「……川端さん、先に部屋に戻っていてくれるかい」
 追いかけるから。
 首にかけていたバスタオルを頭から被った徳田の表情はうかがえなかった。だがひそりとささやいたその声には、甘いまろみが含まれていた。蜂蜜と洋酒を溶かし込んだミルクや、ほの赤い間接照明が似合いの声だった。
 「それと、夕飯は……あとで、外に食べに行こう」
 バスタオルの下から覗いた瞳の奥に、ちろちろと蝋燭が燃えるような光が揺れるのを、川端は見つけたような気がした。

 ***

 下から胸を押し返す、忙しなかった呼吸が次第に、ゆったりと穏やかな波に変わっていく。
 潤んできらめく瞳をぼんやりと天井に向けていた徳田が、枕の上で首を傾けて川端にささやいた。
 「……何食べようか。川端さん、何かリクエストはある?」
 半ばわかっていたことではあるが、今から食堂に下りていっても人はまばらで、ふたりきりで卓を挟んでいたら目立ってしまうことだろう。それを見越して外で夕食をとろうと提案したのか、と尋ねると、徳田は軽く眉を寄せたいつもの表情で川端を見上げる。
 「それも、ちょっとはあるけど……今日は特別だから」
 「特別――」
 何かあっただろうかと記憶を逆回しにして、ああ、と意識しないままに声をあげていた。昼食時に差し出された、去年までとは違うチョコレートケーキ。
 「なんだい、昼間祝ってもらったばっかりなのに、もう忘れちゃったのかい」
 「忘れたと言いますか……嵐に押し流されたとでも申しましょうか」
 結果的にうまくまとまったからよかったものの、あの時の自分は荒れる海原に取り残された小舟だった。親友にすら頼れないと悟ってしまった絶望感は、しかし今となっては遠い彼方のことだ。今頃はあの迷い犬も、司書の計らいで雨風から守られ腹も満たされて、のんびりと過ごしていることだろう。心細げに見上げてきた黒い瞳を思い出すと、おのずと頬がほころんだ。
 「向かう道すがらに考えるのも、良いかもしれませんね」
 身体を離し、袖に腕を通したきりになっている徳田の浴衣を直してやる。外に出られるような着物まではさすがに置いていないので、一度自室に帰さなければならない。いつもであればこんなときは離れがたくて仕方なかったのだが、今日は川端自身驚くほど、不思議と穏やかな心持ちでいられた。
 短い間とはいえ、小さな命を預かっている責任感がそうさせたのだろうか。
 「雨もやんだみたいだね。外が静かになってる」
 「ええ。雨上がりの匂いもまた、よいものです」
 部屋の簡易浴室へと徳田を見送って、川端は窓を開けた。しっとりとした夜の空気が、濃密に煮詰まった室内の空気を希釈していく。表通りを走る自動車のタイヤが、降り溜まった雨水をはね上げる音が遠く響く。
 この、肌にまとわりつく薫りの季節を過ぎれば、もの皆焼き尽くさんばかりの太陽が幅をきかせ始める。そして赤や黄の実りを得、白い静寂が降り積もり、再び現れた土に新たな芽吹きを認め――また、雨の香りが巡り来る。
 いずれはこの手元から、大切なものが次々こぼれ落ちていく日が訪れるのだろう。ただ今生は、喪失感に息を忘れるのではなく、手の中に残った思い出を顧みて寂しさを乗り越えてみたいと思う。
 揺らめくカーテンをそのままに、新しいバスタオルを見繕うべく川端は腰を上げた。