しあわせはポリフェノリック

 階段から見下ろす百貨店の洋菓子フロアは、どこからこれだけ集まったのかと目を見張るほどのご婦人たちで埋め尽くされていた。聞こえてくるさざめきも、他の階に比べると少しばかりトーンが高い気がする。まだ降り立ってもいないのに、白粉や香水の甘い香りさえ嗅ぎ取れそうだ。
 「アンタがわざわざ洋服に着替えてきた理由がよく分かった」
 睥睨の二文字にふさわしく、壁に背を預けて地階を眺めていた島田がそう溜め息をついた。いつもは朗々と響くその声も、心なしか勢いを欠いているようだ。少なからず気圧されているのかもしれない。
 「こんなに混んでると、着物じゃ逆に邪魔になっちゃいそうだからね」
 この時期は毎年こうだよ、と秋声はマフラーを外して畳み、トートバッグの底にしまう。ついでに財布を出しやすいように、ざっくりとバッグの中身を整えた。
 「だから他の荷物も預けてきたのか、……待て、毎年だと!?」
 「うん。僕が図書館に来てから――たぶん、その前からずっと。詳しいことは司書さんに聞けばわかるよ」
 「まったく、帝王たるオレに断りもなく……」
 ぶつぶつ文句を垂れる島田をよそに、再び売り場に目をやる。よく目を凝らせば、波打つ髪や色づいた唇に交じって、熱心に品物を吟味する男性客の姿も認められた。天井や柱にあしらわれたピンクのハートの装飾の下、店員たちも彼らの存在に戸惑うことなく笑顔で応対している。
 バレンタインデーという行事がこの国に広まったのは、秋声たちが一度目の生を閉じてからのことだ。女性が意中の相手に想いを告げる日だったはずが、時を経るうちにさらに形を変え、今ではお中元やお歳暮と大して変わらない扱いになっているようだった。
 恋人や伴侶にだけでなく、性別を問わず、友人や世話になった相手へチョコレート菓子を贈る、はたまた自分自身でこっそり楽しむ。店側もこの日のために高級な材料をふんだんに使った限定商品を売り出したり、パッケージに凝ってみたりと客の欲求に応えるために心血を注ぐ。帝都にあるこの百貨店に限らず、国中の洋菓子店が――ともすれば和菓子店も、ひょっとしたらあらゆる業種の店先が、この時期は甘い熱狂に包まれる。
 「島田くんはどうする? 特に用がないなら、ここで待っててくれれば――」
 そしてここにも、狂騒に身をゆだねようとする者がいた。
 バッグを肩に掛け直し、秋声は島田を振り返った。いくら自分より上背があっても、初めて目にするこんな大混雑の中に飛び込ませるのは酷というものだろう。それに最近はおとなしくしているとはいえ、無用なトラブルに巻き込まれない保証もない。彼ご自慢の、闇の力を抑える装束とやらは黒ずくめであちこちベルトで締めくくっていたり、鎖をじゃらつかせていたり、とにかく威圧的なのだ。棘がないだけ幾分ましなのかもしれない、と、親友の部屋で見かけた漫画のキャラクターを思い出す。
 (髪だって、色はちょっと派手だけど逆立てたり、妙に剃り込んだりもしていないし……うん、あれに比べれば)
 「いや、オレも行こう」
 「えっ?」
 壁から弾みをつけて離れた革のジャケットが、軋んだ音を立てた。
 「し、下々の者たちの営みを知っておくのも、帝王の務めだからな」
 濃紫の髪から覗く耳の縁が、ほんのり赤く染まっている。
 つまり、気になるからもっと近くで様子を見たい、ということだろう。回りくどい言い訳こそついているものの、好奇心を隠さないさまはいっそ微笑ましい。あるいは、ひとり取り残されるのがいやなのか。そういったところはまるきり見た目にそぐわない子供だ。今でこそ見かけ上は二つ三つほどしか変わらなかったが、本来は親子ほどの年の差があったことを今更思い出す。
 ともあれ、人混みに不慣れな後輩を放っておくのはよろしくない。泡が弾けるようなざわめきに満ちる売り場を改めて一望し、よしっ、と口の中で呟いて形ばかりの気合を入れる。
 行列の最後尾を示す札が、人波の合間に見え隠れしている。目当ての品を確実に手に入れるという一点においては、眼下のご婦人の群れは同士でもあり、また競争相手ともなりうるのだ。
 「わかった。……これから潜書するくらいのつもりで、気をしっかり持つんだよ」
 「何を大袈裟な――」
 「気持ちを伝えるのに大袈裟も小袈裟もないよ」
 君だって、恋文を書くときの気持ちくらいわかるだろう。そう告げると、さしもの島田も表情を引き締める。
 「行くよ、島田くん!」
 おろしたばかりのショートブーツのかかとが、よく磨かれたタイルの床を蹴った。

 ***

 『闇の力を使い果たした』
 島田からのそんな携帯通信が秋声のコートを震わせたのは、もみくちゃにされながらも会計を済ませた直後のことだった。
 はぐれた時の待ち合わせ場所として示し合わせていた、地下街へつながる通路へたどり着いてみると、細身の黒いシルエットがぴたりと壁際に貼りついていた。胸元で何かを抱え込むしぐさに一瞬肝が冷えたが、振り返った瞳はいつもの澄んだ空色で、
 「……凄まじいな」
 近づいた秋声を、呆然としたそんな一言で出迎えた。すっかり素に戻った、世間慣れしていない風の物言いに思わず噴き出してしまったが、彼はもはやそれに反発するほどの気力も残っていないようだった。
 まっすぐ図書館へ帰るのも味気ないと、秋声は近くにある老舗の甘味処に島田を誘った。彼が売り場で何を見たのか、何があったのかはわからないが、毒気の抜けてしまった彼を、買い物に付き合わせた礼も兼ねて労おうと思ったのだ。席にはやはり女性客の姿が目立ったが、先程までいた百貨店よりも年齢層が高いせいもあって、店内の雰囲気はいくぶん落ち着いていた。
 運ばれてきた熱いお茶をひと啜りして、島田がずっと抱えていた紙袋から小さな箱を取り出す。漆黒のマニキュアを施した指先で、それを秋声の方へ押しやった。
 「やる」
 素直に荷物持ちを買って出てくれたり、チョコレート売り場に同行したいと申し出たり、今日の彼には驚かされてばかりだ。
 箱と島田の顔を交互に見つめていると、薄い頬が次第に赤みを増す。対照的に眉間の皺が深まり、眉の吊り上がる角度が険しくなっていく。
 「な、なんだよその顔は」
 「え、いや……これ、僕にくれるの?」
 「そうだと言っているだろう」
 とどめとばかりに、指先だけでなく手のひら全体で箱を滑らせると、島田は消え入りそうな声で言い添える。
 「今の世ではこうするんだろう。――アンタにはその、昔から世話になっているし」
 「それで今日ついてきてくれたんだ」
 「まあ、理由は他にもあるが……いらないのなら」
 「い、いらなくないよ! 嬉しいよ、ちょっとびっくりはしたけど」
 礼を述べながら箱を受け取ると、島田はようやく表情を戻した。秋声の反応に満足したというより、むしろ不安が晴れたことを確かめるように深くうなずく。
 「まあいい。アンタなら受け取ってくれると確信していたからな。オレの唯一の理解者なら……だが、」
 「どうかしたのかい」
 だがそれもつかの間、島田は再び眉を曇らせる。
 ちょうど注文したものが運ばれてきて、一瞬そちらに気を向けたようだったが、店員が伝票を置いて去ってしまうとまなざしは膝の上に戻ってしまった。売り場の混雑から守りきった純白の手提げ袋が、彼の視線の先には鎮座していた。すらりと整った指が、紙袋の縁をらしくなく慎重な動きでなぞる。
 「オレの選択は、はたして正しかったのか」
 今の彼に似た表情を、秋声は何度か目にしていた。来館者向けの催しで必ず何人か現れる、親とはぐれてとんでもないところに迷い込んでしまった子供の顔だ。目の前では汁粉の椀が湯気を立てていたが、まずは迷子をあるべき場所へ導いてやるのが先だった。
 「もしかして、僕以外にも……」
 「……ああ」
 島田の前にも、みたらしだれとこし餡の載った団子がひと串ずつ、皿の上で口に運ばれるのを待っている。だが白く長い指がつかみ取ったのは、ほとんど中身の残っていない湯呑だった。
 「文学者同士の話はできるようになったのに、奴がどんなものを好むのか、確かめられていないんだ」
 「それでも、買うには買ったんだよね。僕にくれたのと同じもの?」
 「いや、違う。まったくの憶測でだが、これなら少なくとも嫌がられはしないだろう……と」
 自分なりに考えたんだ、と青年は重々しく答えて、みたらし団子の串を取り上げてかぶりついた。つきたてらしい柔らかそうな団子が、白い歯に噛みちぎられていびつな三日月形に伸びる。
 つられて箸をとりながら、秋声は島田が発した一連の言葉を改めて反芻した。
 転生してきたばかりの頃、周りの者たちを愚鈍呼ばわりしてはばからなかったあの島田が、誰かに感謝の意を伝えようと、世間の催しに乗っかっている。あまつさえ、そのために用意した品物が相手に受け入れられるかどうか気を揉んでいる。
 秋声にとって島田は確かに手の焼ける後輩ではあったが、彼のすべてを知りつくしていたわけではない。生前、彼が病院へ送られてからのことはもちろん知るよしもなかったし、今生でもあえて少し距離を置いて見守るようにしていた。
 かつての彼らしからぬ言動を、成長の二文字であっさり片付けてしまうのはあまりに安易で、彼に対しても失礼であるように思われた。どうしても一言でまとめるとするなら、成長よりもむしろ『変化』がふさわしい。幅広い年代で活躍した文士たちが集まる、帝國図書館という濃密な環境が、それまで島田の被っていた殻を剥がしていったのだろう。
 「なあ、アンタはどうなんだ」
 口元の醤油だれを舌先でぺろりと舐め取って、島田が秋声に向き直る。
 「アンタも、毎年こうやって菓子を贈ってるんだろう。川端に」
 腹が満たされたせいか、彼の表情は平静を取り戻しつつあった。聞き知った、どころではない名前をその声が紡いだのに、そわそわと熱が両頬を這い上がる。
 「あいつの好みとか、探ったりしているのか? ああ、アンタのことだから、知らないうちに見抜いているのかもしれないが……喜ばれるかどうか、とか、悩んだりしないのか」
 「川端さんの、好み?」
 ふた串目の団子に手を伸ばす島田の頬も、おそらく暖房のせいでなく色づいていた。それが目に入った途端、指摘されたばかりの観察眼が余計な推論を引き当ててしまう。
 「えっ待って、『アンタも』ってことは……島田くん、」
 「オレのことはいいだろう! 今はアンタに聞いてるんだよ」
 この店の名物であるこし餡団子を、じっくり味わいもせず島田は口に運ぶ。彼の意中の相手も気にはなったが、それよりも彼の投げかけた一言がずっと耳に焼きついて離れなかった。右手の箸が滑り落ちて、盆の上に転がったのにも気づけない。
 「――そっか……今まで考えたこともなかった」
 はなから奇抜なものを選んだことはなかったけれど、食べ物でもそれ以外でも、秋声の贈ったものに対して、想い人である川端が芳しくない反応を見せたことは一度もなかった。篝火のように燃える瞳が大きく見開き、しばしののちに柔らかく細められて、低く落ち着いた声が感謝と喜びを告げる。よほど感極まった時などはそれに加えて、両の手のひらで包み込むように手を握られたり、そのまま引き寄せられて、
 「秋声、……おい、秋声!」
 苛立ちぎみに呼ぶ声に思わず肩を跳ねさせた。島田の目の前にある皿にはからっぽの串が二本転がっていて、尖らせた唇の端には餡のかけらがくっついている。
 「何を呆けているんだ。さっさと食わないと冷めるだろう」
 厳しい口調でせっつきながらも、通りかかった店員にふたり分の湯呑を示してお茶のおかわりを求める。口の中に残った甘みを熱いお茶で喉奥に流し込んで、付け合わせの塩昆布でまだふわふわとした意識を現実に引き戻す。
 「ありがとう。すごく、新鮮な視点だなと思って」
 「新鮮?」
 「うん、川端さんが喜んでくれるかどうかとか、あまり不安になったことなかったから」
 島田にも口直しに塩昆布をすすめながら、店内の気配がぐっと濃度を増したのを感じ取る。自分たちのように、買い物を終えてひと息つこうとする客が増えてきたのだろう。
 「考えてみたら、それってけっこう傲慢なことなのかもしれないね。相手のことを思って一喜一憂するのも、忘れちゃいけない心の動きなんだなって」
 「ふん、このオレの説法から気づきを得たと? 良い傾向じゃないか、しっかりと胸に刻み込むといい」
 「……そうだね、覚えておくよ」
 すっかりいつもの調子を取り戻した島田の、得意満面の面持ちを前にしながら、秋声はかたわらのバッグの中身がとくとくと脈打つように感じていた。
 電車を乗り継いで帝國図書館に戻ってくると、島田は闇のささやきに身をゆだねてくる、とひとり足早に廊下を曲がっていった。手洗いはそっちの方角だったかと首をひねりかけたが、焦りぎみのノック音が聞こえた先の、『第二補修室』の札を目にして、疑問は残さず氷解する。
 「……誰にあげるの、なんて野暮なこと聞かなくて正解だったな」
 扉の先にいる人物も、おそらく島田からの贈り物ならほぼ無条件で喜んでくれることだろう。とかく誤解を招きがちだが、この図書館で自分が認めた相手に対しては、島田は真摯に向き合おうとしているようだった。その意を汲み取ってくれる者も、少ないがきちんと存在している。
 (そういえば何だかんだで仲良くなったみたいだな、川端さんたちとも)
 確か彼らは同年代だったと思い起こしながら、まずは談話室へ歩を進める。一部の文士たちからの要望に応えて、数週間前にヒーターを増設したと司書が語っていたから、格段に居心地のよい空間になっているだろう。
 誰かいれば給湯スペースの片付けを手伝ってもらおうと考えたが、予想に反して室内はしんと静まり返っていた。窓から降り注ぐ陽の光に加えて、オイルヒーターが何台か置かれており、瞼の重くなる空気が充満している。
 奥のソファとほぼ同化した、渋い色の着物をまとった男がひとり船をこいでいるのを見つけて、秋声の心臓が比喩でなく跳ね上がった。熱を帯びている瞳は、白金色に輝く長い前髪と、薄絹の瞼に二重に守られている。
 「……こんなに早く顔を合わせるなんて」
 うたた寝しているのに、膝の上にきちんと両手を揃えているのが可愛らしい。ふっくらとした唇が小さく開いて、そこから規則正しい呼吸が凪波のように洩れている。寝顔なんて何度も見ているはずなのに、みっちりと生えた睫毛の密度に目が吸い寄せられてしまう。
 (島田くんがあんなこと言うから)
 胸のうちでこっそり毒づいたのが伝わってしまったのか。
 ふいに全身をびくりと震わせて、男――川端が目を覚ます。目の前にあるスキニーデニムの脚を視線でたどって、丸い虹彩の形がはっきりわかるほど、大きく瞼を見開いた。
 「徳田さん……!」
 「うわっ、ご、ごめん! 起こしちゃったかな」
 「い、いいえ、こちらこそ……お見苦しいところを……」
 消え入りそうな声で弁解しながら、川端は自身の頬を覆った。秋声よりも色の白い肌は、血の色がよりはっきりと透けて見える。
 少女のように恥じ入ってみせながらも、すぐに老境の落ち着きを取り戻した川端は改めて秋声の全身を眺めて、お出かけでしたか、と微笑んだ。館内ではほとんど着物姿でいるおかげで、こんなふうに若めいた洋装は目に新しいのだろう。ついこの間揃えたばかりの服を図らずもお披露目したかたちになって、秋声のほうはいっこうに動悸が鎮まらない。
 ふと、肩に掛けたままのトートバッグの重みを意識する。遅かれ早かれ、彼に渡すべく買ってきたものだ。なみいる女性客たちに揉まれて、選ぶ時間も限られた中で、最近は慣れっこになってしまいながらも、それでもいつも通り笑顔で受け取ってくれることを願って。
 きっと今の自分は、真っ先に補修室に突っ込んでいった彼と同じ表情をしているのだろう。そして、初めて川端に贈り物をしたときも、覚えてはいないけれどこんな表情だったのだろう。そうであればいい。
 震える手を抑えてバッグの中を探り、秋声はリボンのかかった箱を差し出した。

 「あのね、これ……ちょっと早いけど」

2023年1月のWebオンリー(ことつむ2)で展示したもの。
バレンタイン直前だったのと、ちょうどステップアップ衣装で覇者組(秋声&島田)の冬衣装が出たので、あの格好でふたりでチョコの買い出しに行ってもらいました。
買い出し後にふたりが立ち寄った老舗の甘味処は、新宿の某お団子屋さんをイメージしています。買い出しに行ったデパートもあのあたり。

島田くんが誰のところに行ったのかはこちらへ→裏・しあわせはポリフェノリック
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