裏・しあわせはポリフェノリック

 鉄道の駅から帝國図書館までは、乗合自動車に十五分ほど揺られる必要があった。
 帝王たるもの、無防備にふらふらと出歩くものではない――そんなふうに主張して、転生してからというもの、徒歩で行ける範囲でしか出かけたことのなかった島田は、さながら親の真似事をする子供のように、秋声の後に続いてこわごわ車に乗り込んだものだ。生前にもそういった乗り物の類いを利用したことはあったのかもしれないが、あいにくその頃の記憶は曖昧だ。
 図書館へ続く目抜き通りの両側には枝振りも見事な桜の樹が植えられていて、春になると花のトンネルが出来上がるのだそうだ。見頃になると写真を撮りに遠方からも人が集まると聞いて閉口したが、それだけ人々の目を集めるのなら、一度くらいは見てやろうという気になった。凡人共の乱痴気騒ぎに興味はないが、桜の花そのものは嫌いではない。
 (……またか)
 まだ丸裸の桜の樹が、島田の真隣に並んでがくんと揺れた。否、揺れたのは島田たちのほうだ。
 車が停まり、乗客がひとりふたり、よちよちと運転席を目指して歩いていく。鞄の奥から財布を引っ張り出し、釣り銭が出ないように小銭を探って運賃を支払い、開いた前扉からゆっくりと降りていく。
 両手に重たげな買い物袋を提げた婦人。杖をついた老紳士。幼い子供を連れた若い夫婦。客の姿はさまざまながら、駅前の停留所を出てから、もはや飽きるほど目にした光景だ。
 「これじゃ各駅停車だね」
 秋声が隣でひっそりささやいて、眉を下げる。乗り込んでからすでに十五分が経過していたが、図書館まではまだ停留所数駅分の距離を残していた。
 舌打ちしたくなるのを奥歯を噛みしめてこらえながら、亡者の手のような枝を横目で盗み見る。小さな蕾がその指先に息づくには、あとひと月ばかりかかるだろうか。
 ひとつひとつは小さくささやかな花が、寄り集まって雲のように枝ぶりを覆い尽くし、やがてひと息に散っていく。この国を象徴する花の咲きようを、記憶の奥底から引っ張り出し、丸坊主の枝の上に重ねて投影する。
 図書館の中庭で毎年行われる花見の宴に、島田は最初のうちは顔を出さなかった。凡人どもに交じって騒ぐなど帝王の振舞いではない。とはいえ桜には罪はないからと、自室の窓からこっそり様子をうかがっていたのだった。
 ちょうど島田の部屋のすぐ下、ひときわ大きな毛氈を敷いた上で、白衣をまとった二人の男が静かに茶を飲み交わしていた。酔い潰れた者を介抱するためだろうか、辺りの喧騒から一歩退いたそのたたずまいから目が離せなかった。
 しつこく絡まれるのは御免だが、あんな席になら交じってもいい。
 いや、無理だとかぶりを振っていた。もしのこのこ降りていって、歓迎されなかったら――かつての記憶が、上げかけた腰を畳の上に引き戻す。どんな者からであれ、己の日頃の行いがまずかったとはいえ、拒絶されるのは悲しい。他の者相手なら憤りを覚えたのかもしれないが、そのときは何よりも悲しさが先立って島田の中に沸き上がった。
 受け入れてもらえないなら、主治医と患者という今の関係のままでいい。いや、そこだけは崩したくない。そう思っていた。
 それなのに。
 「島田くん、次で降りるよ」
 ジャケットの袖口を秋声の指先が引く。窓の外に目をやれば、いつしか見慣れた煉瓦造りの建物が、白い塀の向こうにそびえていた。帝國図書館前、と何のひねりもない停留所の名前を車内アナウンスが告げる。
 荘厳でありながらも、通りに向けて大きく開いた正門。他にも降りる者がいるのか、ごそごそと荷物を探る音がそこここで聞こえる。秋声に続いて席を立ち、車のステップを降りた。
 図書館の利用者以外にも広く開放された前庭には、肩を並べて散歩する老夫婦や、ベンチで語らう学生たちの姿が点々と認められた。近所の学校のものらしい詰襟の傍らに、自分が提げているのと同じ小さな紙袋を見つけて、島田は跳ねる胸を押さえる。小さな菓子箱ひとつふたつしか入れられないはずのそれが、なんだかやたらと重い。
 はたして喜んでもらえるのだろうか。
 弱気になっている自覚はある。らしくなく――精神界の帝王を標榜する身としては確かに、らしくない。けれど、だからといって切り捨ててはいけない感情であるようにも思われた。
 (忘れてはいけない、心の動き……だったか)
 不安になるのは、笑顔で受け取ってほしいという願いが根底にあるからだ。秋声と川端は島田がこの図書館に来る前から親密な仲で、何となれば川端のほうが、生前から秋声を深く慕っていたという。そんな下地があったから、秋声は川端の好意をいつでも疑わずにいられるのだろう。
 翻って、自分とあの男との縁はこの図書館で出会って初めて築かれたものだ。ようやく文学談義を交わせるようにはなったものの、まだ互いを繋ぐ糸は細く頼りない。生前のこともあっていまいち信を置けないのが医者、特に精神の医者なのだが、彼、斎藤茂吉だけは例外にしたかった。
 ぐるりと通用口に回って、自分たちの生活空間でもある特別棟に足を踏み入れる。
 「秋声、」
 買い出しの品が詰まった紙袋を足元に置くと、島田は目当ての方角へ踵を返した。茶請けの菓子がしまってある、文士たち向けの厨房とは真逆の方向だ。
 「悪いがオレはここまでだ。闇の囁きに少々身を委ねてくる」
 「えっ? ああ、うん、ありがとう」
 手洗いかな、との呟きを背に、廊下を進む足を速める。こういうときに追いすがってこない、秋声の適度な鈍さはありがたい。
 第二補修室、と札が掲げられた扉を叩き、どうぞ、と入室を勧める声を待つのももどかしくドアノブを捻る。背後の窓から差し込む光を背負っていても、室内の人物が眼鏡の奥の目を大きく見開いたのがよくわかった。
 「――島田君……」
 いつも問診のときに通される、打ち合わせ用の小さなテーブルセットには、今はカルテのかわりにマグカップと文庫本が置かれていた。トレードマークの白衣は縞のジャケットと一緒に、半ば腰を上げた椅子の背に掛かっている。休憩中だったのか、すっかり寛いでいたところに自分は乱入したらしい。
 「何かあったのか? 問診なら来週では――」
 用がなければ訪ねてはいけないのか。以前なら、そう突っぱねていた。今もそんな言葉が口をつきそうになったのを、ひと呼吸ついて抑える。
 今日は少なくともまっとうな用事がある。ずんずんと大股で斎藤の前まで進み出ると、右手に提げていた小ぶりの紙袋をその胸元に突きつけた。
 「これは……?」
 「……アンタにやる」
 ぽかんとしたままの斎藤に、言葉選びを誤ったことを悟った。先程秋声にチョコレートを渡したときと、これでは大差ない。このまま斎藤も呆気にとられ続けていたら、いらないならいい、と痺れを切らして叫んでしまいかねない。秋声は言葉にしない真意もきちんと汲み取ることのできる男だが、万人がそんな特性を備えているわけではないのだ。
 痺れる腕をなおもまっすぐ、床と平行に伸ばしながら、島田は己の脳を叱咤する。
 「駅前の百貨店で、催事をやっていて――その、アンタに受け取ってほしくて、買ってきた」
 たぶんそれまで口にしたことのない言葉が、尻すぼみな己の声でそのまま頭の中をぐるぐると巡る。恥ずかしくていたたまれなくて、今すぐここから駆け出してしまいたいくらいだが、右手の紙袋の重みがそれを許さない。
 椅子の脚についた車輪が、板張りの床に擦れて小さな音を立てた。
 「そうか、もうそんな時期だったか」
 笑いをまとった声は柔らかく、馬鹿にされている、と邪推する隙もなかった。もともと響きの良い声をしているとは思っていたが、こういうときの声は特に、綴った言葉の意味を噛みしめるより先に聞き入らされてしまう。
 だから右手がふいに軽くなったのにも、島田はすぐには気づけなかった。
 「ありがとう、島田君」
 島田の手から提げ紐をすくい取り、袋の底に恭しく手のひらを添えて、斎藤は自分の胸元へ紙袋を引き取った。怜悧そうな眼鏡の向こうで、金色の瞳が細められる。
 「君から贈り物をされるとは……嬉しいものだな」
 絶対に関わり合いになりたくなかった相手のはずが、今となっては馬鹿がつくほどの真面目さすらも好ましく感じられていた。主治医と患者のままでいいなんて、そんな無欲ではいられない。
 「――そう、か」
 身体や心の具合だけでなく、互いの書き著すもののことばかりでもなく、とにかくもっと話をしたい。そう意識すると同時に、島田の頬で熱が弾けた。こぼした洋墨が紙に染みるように、皮膚の一枚下でじわじわと広がっていく。
 そんなひそやかな願いが伝わったのか、斎藤はチョコレートの袋をそっとテーブルに着地させ、かわりにマグカップを取り上げた。
 「せっかくだから、君も一緒にどうだ。今飲み物を用意しよう。コーヒーと紅茶と、どちらがいい?」
 「い、一緒に、って」
 「ああ、」
 文庫本を脇に避け、隣の椅子を引いて島田にすすめながら、生真面目を絵に描いたような男はこともなげに続ける。そのさりげなさが、実は一番たちが悪いのに、本人は気づいてもいないのだ。

 「こういうものは、ひとりよりも二人で共に味わうほうがいっそう美味いものだからな」

2023年2月のしませ誕合わせ…のつもりが少しずれ込んでしまいました。
本編を書いたあと、せっかくだからしゅせくんと別れたあとのしませの動向も書きたくなったので…。
この後、もちち誕のコメント担当がしませになるなんて、ましてやあんなコメントをよこすなんて想像もしてなかったのでした。
『人の気も知らないで』って何…どんな気持ちなの…! なんならそのままCPアンソロのタイトルに使えそうな勢いじゃないの!?
top