当身の顛末(または『和解』を朗読せよ)

 「自分に弟がいたというのも、今となってはすっかり遠い感覚ですね」
 「結婚して、奥さんがいたっていうのもね」
 こんな若いなりじゃさっぱり実感がわかない、と苦笑う。秋声が書き込みを加えたコピー用紙に、鏡花が受け取った端から目を通す。
 かの作品を台本として編み直すにあたって、秋声がまずしたのは登場人物の吟味だった。自分と鏡花とその弟、その三人を際立たせるために、その周りの人々をやむを得ず退場させる。しかし無慈悲に二重線で記述を消すのはためらわれて、取り除く箇所を赤い括弧で囲んだ。
 「ずいぶんざっくりと削りますね」
 「時間をどのくらいもらえるのか知らないけど、短編って言ったってそこそこ分量はあるからね。一応、大筋に差し障りないようにはしているけど」
 「いいんですか」
 らしくなく言い淀む声に様子を窺うと、鏡花はまずいものに触れた顔で、手元の紙でなく自身の膝に目を落としていた。
 「いいのかって、何が」
 「だってあなた、『縮図』で――」
 しばらく逡巡して、鏡花が口にした単語は秋声を驚かせるに十分足りるものだった。今の秋声自身ですら、何度か開花の術を受けてようやく思い出したくらいだし、時系列的にかつての鏡花が知るはずもないことだ。そのとき彼はとうに、彼岸の人だった。
 それでも秋声は、わずかに筆の運びを止めるだけにとどめた。
 「……よく知ってたね」
 「読みましたから」
 ぱちん、とボールペンの芯が内側に引っ込んだ。
 律しきれない感情が指先からだだ漏れるのを、いつも以上に眉根を寄せて抑えようとする。作品そのものだけでなく、それに付随するエピソードまでも、その口ぶりだとすでに知っているのだろう。物書きとして、自分の著作を読んだと聞かされるのは悪い気はしないものだが、今だけはそれ以上の脱線を許したくなかった。
 「人からとやかく言われて直すのと、自分の意志で話の筋をいじるのは違うよ」
 だから君は、何も気にする必要はない。
 花のような唇が開くのを押しとどめるように、秋声はようやく赤を入れた紙をまた一枚、鏡花のほうへ押しやる。
 「もし、ここは残したいとかあったら、印をつけておいてくれないか。それによっては他を削るなり、そこの部分を短く書き直すなりしないといけないから」
 何枚目かの紙を受け取る手が、心持ち小さくなったように見えた。
 自分の書いてきたものに、まったく自信がないわけではない。一応それで長いこと食べてきたものだからだ。しかし他の誰でもなく、鏡花に読まれたという事実が、少なからず秋声を動揺させていた。しかも、今の鏡花に。
 「僕がK……とTで、あなたが『私』ですよね。役を割り振るとしたら」
 「そのほうが順当だろうね。――なんなら交換するかい」
 ほんの思いつきだった。単純に、それも面白いかもしれないとか、演じ分けの手間がかかるほうを(一応、弟弟子として)引き受けようか、程度の意味合いしかなかった。あるいは揺さぶり返してやれとの考えも、あったかもしれない。
 「えっ」
 しかし大きな瞳をまん丸くした、常より幼い彼の表情に、すっかり毒気を抜かれてしまった。
 「冗談だよ。めいめい自分の役をやるのでいいんじゃないの」
 ボールペンを動かしながら、こっそり鏡花の横顔を窺う。長い睫毛の下で落ち着きを取り戻した鳩羽色の瞳が、行を追って細かく左右に振れる。今の姿こそ若造のそれでしかないが、真に迫った瞳はまぎれもない物書きの、妥協を許さない光を帯びていた。
 事実を仔細に描き出した己の文章をそんなふうに、一字も漏らさぬとばかりにつぶさに見られていると思うと、ぞくりと背筋が震える。今まさに浴場に入らんとするところで脱衣場に踏み込まれて、そのまま裸をまじまじと観察されている気分だ。
 「秋声? 次は――」
 すいと差し出された綿手袋の手に我に返る。
 「ああ、ごめん。ちょっと待って、」
 さして物のない畳敷きの室内に、ただ紙をめくる音とペンの擦れる音ばかりが満ちる。
 結局その日、秋声の編集した台本に鏡花が異を唱えることはなかった。

 それから三日とあげず、鏡花は秋声のもとを訪れるようになった。きちんと清書した台本を携えてきたかと思えば、どのくらい時間がかかるか知りたいから、と読み合わせの練習を持ちかけてくる。渋々ながらそれに応じると、鏡花は畳の上に端切れが散らばっているのも構わず靴を脱ぐ。
 「『山の神をよこさうかと思つたんだがね、あれは病院へ行つてるんだ』――」
 戯曲も手がけたことのあるせいか、さらりと読んでいる秋声がこれで良いものかと不安を覚えるくらい、鏡花の台詞回しはなかなかのものだった。通して読み終えたあとで遠回しにそれを告げると、
 「悪くないと思いますよ、僕は。秋声は語り手なんですから、あんまりくど過ぎては聞くほうだって疲れてしまうでしょう」
 はたして褒められているのか疑わしかったが、悪くない、との評を無下にするとまた小言になって返ってきそうで、秋声はそれ以上の反駁を避けた。にこにこと、その造作が一番引き立つ顔で笑っているものだから、それをつついて崩すのもはばかられたのだ。
 それにしても、
 「けっこう縮めたつもりだけど、それでも十五分近くはかかるね」
 聞く側が疲れるといったら、単純にその長さも原因のひとつになるだろう。
 「……やっぱり制限時間とか、司書さんに聞いておいたほうがよさそうだね。場合によってはまた台本をいじらないといけないかも」
 「それなら僕が、司書さんに交渉してみます。手を加えすぎて元の話から遠ざかってしまっては、本末転倒でしょうから」
 だから時間のことは気にせずに、と鏡花は主張する。その、らしからぬ態度が小さなささくれのように、秋声の胸にひっかかった。
 「ずいぶん協力的なんだね」
 「何かおかしいですか?」
 「おかしいっていうか、もっともっと短くしろって駄目出しされると思っていたから、意外だなって」
 「あなたの作品ですから」
 だから自分はあくまでサポートに徹すると、そういうことだろうか。確かに彼の、自分に対する小姑のような態度には常から辟易していたけれど、いざそれが鳴りを潜めてしまうと、今度は違和感で居心地が悪くなる。
 秋声、と、やけに優しげな声で名を呼ばれた。
 「この朗読会が終わったら……ちょっと、僕に付き合ってもらえますか。行きたいところがあるんです」
 近所の買い物程度なら、朗読会の後でなくとも、別にこれからだってついていくのに。どこに連れて行くつもりか尋ねると、鏡花は頬をはにかませた。
 「昔、先生のお宅があったところです。なんだか懐かしくなってしまって」
 件の作品には、彼と連れ立って師の旧居を見に行くくだりがある。断絶状態からほんの少しだけ歩み寄れたその頃をなぞって、彼は何をしたいのだろう。
 頭の中を疑問符で埋め尽くしながらも、構わないけど、と答えた秋声は、鏡花の目の色が少しばかり曇っていたのを見抜くことができなかった。

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