廊下はこれまでと変わらず静かだった。皆、息を潜めて最後の時を待っているのか、もう全て心残りを済ませて床に就いてしまったのか。二階、三階、四階と階段を踏みしめる、ちょっとした軋みですらも大きく響く。
果たして、『〇七八』と金属板の打ち付けられた扉を前に僕は叩扉をしたものかどうか、しばし迷った。とっくのとうに寝入ってしまっていたら。安寧の眠りを覚ましたのが僕とわかれば、彼はどんな顔をするだろう。いや、こんなときまで説教しにきたのかと、怪訝な顔をされるのは目に見えている。
とはいえ、ここまで来てしまった以上、もはや退くことはできなかった。先生に送り出されたから、それだけが理由ではない。
三度、扉を叩く。
どうぞ、と返ってきた声は、普段通りに乾いていた。
ドアノブを捻ると、蒼白く照らされた畳がまず目に入る。整頓された室内を照らし出すのは、窓から差し込む月の光だ。
そこに、季節外れの蛍がいた。
「――秋声」
寝間着姿で、窓辺に陣取りこちらに背を向けて、右手の指先から淡く煙を立ちのぼらせている。灯りをつけようとしたが、いくらパチパチとスイッチを押しても、一向に部屋の明るさは変わらない。
「ああ、蛍光灯、外してあるから。いくらやっても無駄だよ」
「何故です、」
「ちょうどいいタイミングで切れたんだよ。司書さんたちの手をこれ以上煩わすわけにはいかないからね」
煙を吐き出し、灰皿の上で火を揉み消す。
「で、何しにきたのさ。最後の最後まで説教かい?」
秋声は窓の外を眺めるままだった。部屋に入ったときにちらりとこちらを窺うくらいはしたのかもしれないけれど、
「あなたの顔を見にきたんです」
ふうん、とひとこと返しただけで、やっぱり秋声はぐいと首をねじけさせたままだ。部屋には招き入れてくれたくせにどういう了見か、ふつふつと怒りが湧いてくるけれど、ここで激昂してしまってはいつもと変わりない。
沓を脱いで畳に上がり、彼の斜め後ろに座る。
「きみも物好きだね。わざわざ嫌いな奴の顔を見にくるなんてさ」
けれど腹立たしくなるくらいに、秋声の態度はあっさりとしたものだった。あっさりしていて、皮肉めいて、まるで明日僕たちが消えるというのも嘘のような物腰だった。まっすぐ伸びた背中も、嫌味なくらいいつも通りだ。
「そんな言い方」
「違うのかい? さんざん世話になった師匠にも兄弟子にもさっぱり敬意を払わない、そんな奴を許せるほど、きみは寛大じゃないと思ってたけど」
顔を見にきたはずなのに、僕はまだそれを許されていない。僕が彼を嫌っている、その大前提のもとに投げつけられる言葉はちくちくと尖って、何もされていないのに顔を上げているのが辛くなる。いつもならば僕は負けずに言い返して、秋声もさらに態度を硬化させて千日手の様相を呈するのだが、
「それはそうですが……嫌いというのとは、少し違います」
火の消えた紙巻が、文机の上の灰皿に置かれた。ふう、と白い煙が吐かれ、部屋の中を漂いながら薄れていく。
「どう違うのか、聞かせてもらってもいいかい」
先程までよりはっきりと聞こえる声。
こちらを向いたのは上半身だけだが、ようやく僕の差し当たっての目的は果たされた。眉根を寄せた、つまらなそうな表情はすっかり見慣れた、彼のお定まりだ。
「確かに、先生への態度が目に余るとは思っていましたけど、あなたのすべてを否定したつもりではありませんよ。そう思わせてしまったのは、僕の至らぬところです」
「別に、謝ってもらうことなんてないけど」
秋声の目はまた窓の外に向いてしまった。手の中の紙包みからまた一本、淀みない手つきで取り出して、燐寸で火をつける。かつては大変な烟草飲みだったらしい彼だけれど、今の、まだあどけなさの残る見た目で喫む様子はどうにも歪だ。
それにしても、最後なのにこんな調子のままで、本当にいいのか。否、良いはずがない。
悔いのないように、そう先生は仰って僕を送り出してくださった。今となっての僕の悔いはただひとつ、秋声ともっと腹を割って語り合いたかったということだ。お手手繋いで仲良しさんなどと嘯けないまでも、もっと彼のことを理解したかった。残された時間でそれが叶うのか、もう僕にはわからないけれど。
『僕は君が嫌いだ』
いつだったか、館内をふらついていて鉢合わせたとき。あれがきっと、最も彼に近づけた瞬間だったのだろう。そこで突きつけられた言葉はたいそう堪えたし、ふたりこれからどうしていこうなんて結論はついぞ出ないままだったけれど。
「秋声は僕の、どんなところが嫌いでしたか」
「……はぁ?」
「この際ですから。来世の参考にと思いまして」
「また同じ時代に揃って生まれ変われる保証はないけどね。次も人間に生まれるかどうかもわからないし」
「じゃあ、冥土の土産にで構いません」
僕もつとめていつも通りに食い下がる。
物好きな奴、と呆れ返りながらも、秋声は律儀に指折り数えながら訥々とあげつらう。僕はそれに逆上することなく、ひとつひとつ頷いて次を促す。
「叱言がうるさいところ。僕を弟弟子としか見てないところ。すぐ手が出るところ。あんぱんの食べ残しを平気で僕によこすところ」
前の世、先生が病に取られてしまったのが、思えばすべての引き金だった。その臨終のさまを、彼はその観察眼をもって克明に書き残し、僕はそれが我慢ならなくて、それきり彼との交わりを絶った。その後の文壇の流れに乗るかたちで、彼はその作風からしても先生のもとを離れ、自然主義文学の担い手として名を上げていった。
今生の僕が彼に、同門としての意識を持つようしきりに強いてしまったのも、きっとそのときの記憶が尾を引いていたからなのだろう。過干渉の自覚さえ見失うほど、彼に側にいてほしかったのだ。ひょっとしたら他にもっと、上手いやり方があったのだろうか。
「――まだあるよ」
一段と低くなった彼の声に、僕は散逸していた意識を引き戻す。
「それでも、目で追わずにいられないところ」
何を言われたのかわからなかった。僕の嫌いなところを列挙してもらっていたのだったか。誰が何を目で追うのが、そこに繋がるのか理解が追いつかない。
二本目の煙草は随分と短くなっていて、秋声はそれを灰皿に押しつけた。胡座の真ん中に転がしていた箱も燐寸も文机の上に放って、今度こそ身体ごと、わざわざ座り直してまで僕に向き直る。
最初は睨まれているのだと思った。鋭い眼差しは目の奥、頭の中、思考の底までを見透かすようだ。
「君のことを考えるとさっぱり落ち着かないから、だから、嫌いなんだ」
「――そんな、勝手な言い分」
落ち着かなくなるなら、考えなければいいだけのことなのに、なぜ僕のせいにされるのかわからない。まるきりただの八つ当たりだ、こればかりは反論してもいいだろう、と腰を浮かせかけて、違和感に気がついた。
落ち着かないのに、目で追わずにいられない。心がかき乱される、それはつまり、
「……そういうところだよ」
視線を切らないまま、秋声が拳ひとつ分いざり寄る。窓の外、いよいよ中天高く昇った満月を背にして、僕から見えるのはその、鈍らない眼差しばかりだ。
「確かに勝手だ、君が正しい。けど君のそういう、真っ当なところ」
好きすぎて、嫌いなんだよ。
もう膝がぶつかりそうなほど縮まった距離が、さらに詰まった。手首を熱が縛めて、ぐいと引き寄せられる。
秋声は男にしては小柄な方で、腕も胸も僕とそうそう差がないはずなのに、こんなにも力強かったのか。あまりに驚いて何もできない僕は、あっさり抱きしめられるままになっていた。
好きだと、言った。確かに聞いた。ずいぶんとまあ、手のひら返しもいいところな評価ではないか。いや、真逆なのは、その熱量の正負だけだ。好きも嫌いも、そう判断できるほど相手に関心を持っていなければ成り立たない感情なのだから。
「……好きだったんだよ、たぶん、前から。意味合いは違うだろうけど、僕はずっと、きみに振り向いてほしかった」
抑えたままの声が余計に、今にも爆発しそうな想いの強さを知らしめるようだった。
寝間着に染み付いた煙の匂いの奥に、秋声自身の、石鹸と何かが入り混じった香りを感じとって、途端に胸が忙しくなる。洋墨で傷を癒す作り物の身体にも、確かに心の臓がある。抱きすくめられ好意を囁かれて、すなわち恋心だと判ずるに、次は何が待ち受けるのやら見抜けてしまう。
それも良かろうと思った。言葉で上手く通じ合えないのなら、それ以外の手段で感じ合うよりほかに術はないのかもしれない。
畳の上に押し倒される直前、僕の頭を庇ってくれた手のひらの温度だとか、髪を梳いてくれる指の動きだとか、こちらの様子を見ながら進めてくる接吻だとか、そちらのほうがよほど雄弁だ。
男同士なのにという戸惑いは、最後なのだし、と自身を説き伏せることによって、ついには着衣と一緒に投げ捨ててしまった。
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