「……カレーって、よっぽどのことがない限り失敗しないと思ってたんだけど」
呆然とする島田を、口元を押さえてじっとりとねめつけるのは、彼のことを最もよく理解してくれるはずの男だった。当初の目算では、いつもの気難しそうな表情をぱっとほころばせて『きみ、料理もできるなんてすごいね』なんて賞賛を存分に浴びせかけてくれるはずだったのだが、今の状況はどうだ、まるきり真逆だ。
というか、失敗とはどういうことだろうか。自由に使っていい冷蔵庫の中に、半端に残った野菜や肉とカレールーがあったものだから、日頃の労をねぎらうつもりで手ずから腕をふるったというのに。精神界の帝王たるこのオレが!
「その様子だと、味見もしてないでしょ。……ほら」
食べてみなよ、と突きつけられたスプーンの中身をまじまじと観察する。カレールーの箱に印刷された写真と、色合いも質感も大きな差はなさそうだ。ただスパイスの香りに混じって、明らかに異質な匂いが鼻をついた。
ひとつ、思い当たるふしがある。カレーに隠し味を加えると一段と美味くなると聞いて、冷蔵庫にあった瓶の中身を、それはもう景気よく振りかけたのだ。
「まさかあれか……あの秘薬がすべての元凶だと」
「いいから早く」
唇をつつくスプーンに促されるまま口を開く。歯にぶつからないよう慎重に差し入れられたひと口が舌の上に乗るなり、反射的に眉根がきつく寄るのがわかった。強烈な発酵臭が鼻から抜け、塩気がやたらと舌を刺す。結果、目の前の彼に倣って口を覆い、うつむくはめになる。こんなに手放しで喜べない『はいあーん』もないものだ。
口に合わない、なんて可愛いレベルのものじゃなかった。ありていに、包み隠さず、率直にぶっちゃけるなら三文字ですべての片がつく。
まずい。
「なっ――んだ、これは」
「僕に聞かれても。っていうか秘薬って、いったい何入れたのさ」
それでも目の前の青年、もとい秋声はたいして動じる様子もなく、いつの間にか用意していたグラスに水を注いで差し出してくれる。グラスが汗をかくほどよく冷えた氷水は、口の中にしぶとく残る失敗の痕跡をきれいに洗い流してくれたけれど、島田は一度テーブルに落とした視線を上げることができずにいた。
「別に怒ってるわけじゃないよ、知りたいだけ」
何を入れたのかわかれば挽回もきくだろうし、秘薬といってもどうせ冷蔵庫に入っていたものだろう、と秋声はグラスの水をひと口すすって椅子を立つ。目の前に差し出された手を、島田はただぼんやりと見つめるばかりだった。
「ほら、島田くん」
「……食うのか」
皿の中身はろくに減っておらず、それどころか厨房の片手鍋にもおたま一杯分ほど残っている。さすがに捨てるのはないとしても、己の引き起こした過ちとして、自分ひとりでどうにか平らげるしかないと思っていた。他でもない秋声に、供するに値しないものを出してしまった負い目が、島田の腰をいっそう重くする。
しかし秋声はまったく意に介さないふうで、なおも島田の腕を引いた。
「何言ってるの。ちゃんといただくよ」
「でも、」
「昔より胃も強くなったし、食べ物を粗末にするつもりもないし」
食べかけの皿はそのまま、引っ立てられるままに厨房に足を踏み入れる。奥に鎮座する大きな冷蔵庫に手をかけて、
「……きみの気持ちもね」
ようやく振り返った秋声の頬には、ほんのりと赤みが差していた。
それを目に焼き付けきらないうちに冷蔵庫の扉が開かれ、白い冷気がふたりの間を流れていく。開けたら閉める、そんな注意書きの文字がようやく目に飛び込んできて、我に返った島田は扉裏の棚から一本のガラス瓶を抜き出した。
「秘薬って、これ?」
ぱっと見醤油にも似た、透き通った茶色い液体が入った瓶を傾けると、底に沈んでいた結晶がカラカラと音を立てる。極彩色のラベルに書かれた文字は、読み方すら判別のつかない、記号めいたものだった。
島田から瓶を受け取って眺めまわしていた秋声だったが、やがて瓶の一面に目を留めて、あ、と小さく声をあげる。しかしみるみるうちにその眉が曇っていき、
「これは――」
「な、なんだ秋声」
まさか取り返しのつかないようなものだったのか、と息をのんだ島田に、秋声は複雑な表情のまま、瓶の裏側に重ねて貼られた白いラベルを指し示す。
「買った本人に聞くのが、一番早いかもね」
日本語で記載された原材料やら原産国やらの判読を妨げるように、購入した日付らしき数字の羅列と見覚えのある苗字が、太字の黒ペンで上書きされていた。
本人に聞くということは、すなわちこの舶来品の調味料を勝手に使ったと白状しなければならない。いくら帝王とはいえ己の非は認めねばならない、それはわかっているのだが、どうにも気が進まない。それにやはり、帝王を名乗るからには全能であるべきであって、料理に失敗したと知られるのも癪だ。格好がつかない。
「そんな嫌そうな顔しないの。ちゃんと謝れば志賀さんだってわかってくれるよ。それに」
秋声は肩が上下するくらい大きな溜め息をついた。角張ったガラス瓶の輪郭を指先でなぞりながら、
「きみ初めてだろう、料理なんてするの。転生前(むかし)も含めてさ」
うまくいかなくたって仕方ないよ、とようやく頬を緩めてみせる。
これが他の奴なら、知ったふうな口を利くなと毒づくところだが、秋声が相手ではただただきまり悪いばかりだ。特別扱い――昔からずっと、そうだった。
「じゃ、さっそくだけど行こうか。これ、お皿にかけておいて」
いつの間に取り出したのか、ラップフィルムの細長い箱を島田の胸に押しつけて、秋声は瓶を片手に厨房を出ていく。
島田は慌てて、その後を追った。