フェイクスイーツ・トゥルーロマンス

 いつもは武器として扱っている、海老茶色の本の奥付を膝の上に広げると、徳田秋声はその一箇所をそろりと指先で撫でた。
 「……どうにも実感がわかないよね……」
 半端な時間帯の談話室には珍しく、誰の姿もなかった。飾り棚にひっそりと置かれたカレンダー付き時計が、今日の日付を告げている。
 九月十五日。百年以上も前の今日、題名のわりに可愛らしい装丁を施されたこの作品――『あらくれ』が刊行された、のだそうだ。自分の書いたものなのにまるで他人事のようだが、新しい肉体を得て一年半を過ぎた今でも、全てを思い出せたわけではないのだから仕方ない。
 (それに、もともとは新聞に載せていたものだしね。小出しにとはいえ、一度は世に出ていたんだし)
 連載当時の紙面も、司書に頼むと快く探し出してくれた。原版はさすがの年代物で、扱いを誤って破損してはいけないからと、画像データ化したものを司書室の端末に投影してもらったのだが、自分の名前とどこか覚えのある書き出しが数多の記事や広告の合間に、埋もれながらもしっかりと存在をしていることに、表には出さないながらも感嘆したものだった。新聞を手に取った全ての人が、自分の小説に目を通したとまでは思わないけれど、それでも全く読まれなかったなんてことはないはずだ。そして、どれだけ居たかはわからないけれど、この小説とその作者を認識してくれたひとびとの記憶の先に、
 (今の僕がいる、なんて――考えすぎかな)
 やっぱり、意識こそしていないものの、今日という日に多少なりとも浮ついているようだ。依然として文学書の侵蝕現象は続いているわけだし、あまり頬をでれつかせてばかりもいられない。
 一服したら司書室を覗いて、何か手伝いがないか聞いてみよう、と椅子を立ったとき、戸口に人影が見え隠れしたのが目に留まった。
 「誰かいるのかい?」
 おおかた、悪戯好きな子供たちだろう。肝を冷やすほどひどく仕掛けられたことはなかったが、気づいているぞ、との牽制の意味も込めて声をかけてみる。『えへへ、見つかっちゃった』などと、それでもにこにこと耳付き帽子の少年が姿を見せるのを、半ば想定していた。
 のだが。
 「――どうも……」
 ぬっと現れたのは、総身に冬をまとった長身の男だった。昨今の猛暑もあって、いかにも暑そうな羽織を脱ぎ、襟巻も薄手のものだが、重い色合いの着物は相変わらずだ。
 川端康成は恐縮しきりといった様子で、談話室に一歩踏み込んだ。色素の薄い頰にほんのりと朱を掃き、前髪で片方隠れた琥珀色の瞳が熱っぽく徳田へ向けられる。寡黙で、どうにも意図の読みづらい男ではあったが、徳田のことをその著作も含めてとても好意的に見てくれているらしいと、最近ようやく実感がわいてきたところだ。
 川端は小さく息を整えたかと思うと、まっすぐに徳田へと足を向ける。胸元に抱えた小さな本の、その表紙の色が自分のと似ているな、くらいしか、そのときの徳田は深く気に留めなかった。
 「……徳田先生、」
 「な、何? あ、もしかして邪魔だったかな」
 「いいえ。ひとつ、お願いがありまして、伺いました」
 川端自身の、麻の葉柄を全面にあしらった本は帯に挟み込まれていた。では彼がやたら大事そうに持ってきたのは、と、目の前で開かれているその表紙の図案が目に入って、
 「か、川端さんっ、それ、僕の本……『あらくれ』じゃないか」
 思わず声をあげていた。黄緑色の格子の中に野苺の蔓が収まったそれは、徳田が肌身離さず抱えているものと寸分違わなかったからだ。
 川端は頁をめくる手をぴたりと止め、自動人形のように頷いた。
 「先日、駅前に市が出ていたものですから」
 「ああ、そういえば古本市をやるって、館内の貼り紙にあったっけ……それにしても、古本にしてはずいぶんきれいなものだね」
 ハトロン紙のカバーがかかったそれは、まるでつい最近発行されたもののようで、背表紙の傷みも本文頁の紙焼けもなかった。どこかにしまい込まれて、誰の手にも取られず忘れ去られていたせいだと思うと、声が曇る。
 「私も、最初は驚きました。ですが――こちらを」
 示されるままに巻末の広告を何頁か繰ると、体裁の異なる奥付がもう一つ、現在により近い日付を伴って現れた。
 「え、なにこれ」
 「当時に出回ったそのままを、近年になって再現したものだそうです。あまりに状態が良いので店主に尋ねたら、そう教えてくださいました」
 復刻版、と小さく記された文字に、ようやく合点がいった。
 それはともかくとして、わざわざ身銭を切って買ったということか。書き手冥利につきるとはいえ、なんともむず痒い心地になる。
 頬のあたりがぞわぞわ落ち着かない徳田をよそに、川端はくるりと本の向きを変えて、筆記具とともに差し出してきた。自分でもついさっきまで眺めていた奥付の、隣の頁はまるごと空いている。
 「ええと……?」
 「ここに、お名前を頂戴したく」
 時折みられる川端独特の言い回しは、再会したばかりの頃はさっぱり読み解くことができなかった。今ではなんとなく意味が汲みとれるし、川端のほうでもいくらか噛み砕いた物言いをしてくれるようになったけれど、当初は何人の天使に通り道を提供してきたことか知れない。目の前に示された空白の頁とペン、それからじっと見つめてくる川端の瞳とを見比べて、何をなすべきかの察しをつけた。
 「――上手く書けなかったらごめん」
 サインなんて慣れてないから。
 立ったばかりの椅子に腰を落ち着け直す。どの辺りから書き始めようかと目星をつけ、息を整えて、毛筆を模したそれの穂先を下ろした。
 筆書きに馴染みがまったくないわけではないが、やはり本物の筆とは勝手が違う。緊張のせいもあって、やや傾いてしまった自分の名に、それでもやり直すわけにもいかず、息を吹きかけて乾燥を促す。
 川端はその一部始終を、心持ち腰を屈めたまま眺めていた。徳田の筆をぶれさせてはいけないという気遣いのつもりだろうが、近くに人がいる環境で狂いなく揮毫を施すのは、徳田にとっては難しい話だった。
 昨今よく行われているというサイン会とやらは、到底自分にはこなせないだろう。周囲からの視線や気配にばかり気を取られ、今のように字が疎かになってしまって、人様に胸を張って渡せるようには書けない気がする。
 「どうかな、やっぱり少し字が曲がっちゃったけど」
 乾き始めた紙面を見せながら、ソファの隣を勧めると川端は拳ひとつぶんの間をおいて、縮こまるように座面に身を沈めた。香でも焚いているのか、柔らかな香りが近づく。白くしっかりとした指が、墨色の文字に自ら染まろうとするようにその上をなぞる。ああ、と、いつもは重たげな唇から、陶酔の二文字そのままの吐息が洩れ、春の訪れを喜ぶ乙女のように頬が綻ぶのが見えた。
 「ありがとうございます……日付まで添えてくださるとは」
 日付を書き加えたことに深い意味はなかったのだが、どうやらそれもまた彼のお気に召したらしい。静かに、だが手放しで嬉しがってくれているさまに、しかしちくりと胸が痛んだ。
 「良かったの、それで」
 その一言が彼の喜びに水を差すことになる、そうとわかっていても、口に出さずにいられなかった。
 「確かにそれは僕が書いたものだし、その本はずっと昔の今日、発行されたものだ。だけど、そこにサインをした『僕』は」
 徳田や川端を始めとする『文豪』たちがふたたび現世に生を得るにあたって、一度まっとうした人生の記憶の全てが引き継がれるわけではなかった。徳田に関してはことに、川端と誼のあった最晩年の記憶がごっそりと欠落している。今、徳田が持ち合わせている川端についての知識は、すべて後付けで身につけたものだ。彼と顔を合わせるたびに苦々しさが胸を占めるのも、そのせいだった。
 「……どうして僕のサインなんか、欲しがったりするのさ」
 文豪の転生という事実が世間に伏せられている以上、徳田がそこに記した名前には、市井では何の価値もない。生れたる自然派と称された彼のオリジナルはとうに土に還り、この復刻本だってその後に出回ったものだ。
 川端は静かに本を閉じ、胸に抱いた。己の体温を分け与えるように、ゆったりと裏表紙を撫でる。
 「あなたの痕跡を、欲したからです」
 今日でなくとも、この本にでなくても、いっそ構わなかった。
 わずかに身体の向きを変え、前髪越しに見つめてくる瞳が、琥珀から揺らぐ炎へとその色を変じた。熱く、じりじりと重みを伴って、胸の柔らかいところへ食い込んでくる。
 「答えになってないよ、」
 息苦しさに叫びたくなるのを押し殺しながら、視線だけは外すまいと川端を睨み返す。睨む、というには圧の足りない目元に、間隔を狭めて釣り上げた眉を加えることでどうにか張り合おうとする。
 「どうして、僕なの」
 好かれるのにはもちろん、悪い気はしない。それが一度目の生から持ち越された好意であっても。ただ、川端のそれは受け止めるには重すぎるのだ。今の自分は先生と呼ばれるほどの器などない、外見通りの青二才にすぎない。
 「別人みたいなものなのに――」
 「ええ、それも、承知の上です」
 「……は?」
 だから川端があっさりと頷いたのに、拍子抜けを通り越して怒ったような声しか返せなかった。
 「なに、それ」
 「苗床は、確かにあったのでしょう。ですがそれだけでは、種は芽吹きません」
 晩夏の暑さを忘れさせる声が、ふっと途切れた。次いで、すぅ、と聞こえた息継ぎの音に、目一杯ひいた弦のようだった眉間の緊迫が解ける。
 それがいけなかった。
 「ここに喚ばれてからずっと、あなたを見てきました。皆に頼られ、信頼される姿が、今日の私の背を押したのだと……それでは、あなたの望む答えにならないでしょうか」
 用意していた返事が頭の中から吹き飛んだ。
 首元からじわじわと熱が立ち上ってくる。ようやく口で息を吸って瞬きをすれば、眼球のおもてを水の膜がこぼれそうに覆う。
 暴れ打つ心臓が胸を突き破りそうで、徳田は着物の襟元を両手できつく掴みしめていた。珍しくだいぶ噛み砕いた物言いをされたが、徳田の読み解いた内容が自惚れなどでないなら、
 「な、んか、告白みたい、だね」
 「そう取っていただいても、いっそ構いません」
 「――え、」
 なけなしの余裕も斬り払われ、気づけば拳ひとつ分の間合いは詰められて、目の前を翳らせるのは頭上に茂る大樹でもなく、
 
 「改めて、お慕いしております。徳田先生」
 
 ***
 
 厄介な潜書も、すっかり長くかかった補修もようやく済んだ。以降の仕事の予定も、連日ご協力いただいてますから、と急遽なくなってしまった。
 こうなったら夕食までだらだらしてやろうと、彼はくちくなった腹をさすりながら談話室へと向かった。よほどの深夜でなければ扉は開け放たれ、誰かしらの姿がある。酒類の持ち込みは厳禁とのことだが、誰かしらが持ち寄った菓子や茶が尽きることはなく、トランプやボードゲームの類もひととおり揃っている。特に執筆のネタもない今、暇を潰すにはもってこいの場所だった。
 「……ありゃ、」
 廊下を曲がってみて首を捻る。
 いつもならこのあたりから、話し声やらレコードの音やらが漏れ聞こえてくるのだが、今日に限ってはすっかり静まり返っている。
近づいてみれば扉はぴったりと閉まっていて、ドアノブにやけに達筆な字で『臨時清掃中』と書かれた小さなホワイトボードが下がっている。そのわりに扉の向こうは静かなもので、掃除機の音も家具を動かす音も聞こえてこない。
 ぴたりと扉に耳をつければ、かろうじてぼそぼそとした話し声を聞き取ることができたが、その内容までは判別がつかなかった。
 妙だな、と肩をすくめてみても、どのみちしばらく中に入れないことに変わりはない。
 「出かけるか。あんまり持ち合わせないんだがなあ」
 踵を返してぼやきながら、ふと、閉め切りの談話室の話し声を思い出す。何を話しているかまではわからなかったが、どうにもその声に聞き覚えがあったように思えてならなかった。
 「まあ、いいか」
 おおかた出入りの業者だろう。さっさとそう結論づけて、彼は壁に掛かった己の部屋番号の札を裏返すと、通用口の扉を引き開けた。
 伊達に一遍死んでねえぞ、と啖呵を切れてしまう身の上、外の世界には一度目の生では想像すらつかなかったものが溢れ返って、誘惑の大安売りを繰り広げている。そこに遊ぶことに比べれば、あの談話室の声だとか、そもそも本当に掃除が行われていたのかなんて、どうでもいいことなのだった。