きみはおふとんでバリスタ、ぼくのための

 重い布団をかけるとよく眠れる、という話をどこからか司書さんが聞きつけていたけれど、生憎その話を聞いたときには、僕はすでにその事実を知っていた。そしてまさに今も、身をもってそれを実感していたところだ。
 実証実験。
 なんて、大袈裟なものでもないけれど。
 枕元の時計は六時四十分。実際に活動を始めるにはまだ間があるけれど、気を抜けば夢の中に逆戻りしてしまいそうだ。そんな危なっかしい境目に、僕はふらふらぷかぷかと意識をたゆたわせている。ふわふわしているのは意識だけ、身体のほうはしっかり押さえ込まれていて、少し身じろぎするのがやっとの状態だ。
 あたたかくていい匂いのするものが密接しているのは、この上ない幸せだと思う。重さは……女のひとがこの重さに耐えられるかと言われれば、少しばかり疑問だ。潰れてしまうかも、というのはそれこそ大袈裟だろうか。
 成人男性まるまるひとりぶんの重みを、寝床の中で僕は一身に引き受けている。男ふたり、けっして広くはない一人用のベッドに収まっている状況、相手はそんな状況を互いに許容できる程度の間柄。そのあたりでいろいろ察してもらえると思いたい。人生に二度目がある時点ですでにただ事ではないわけで、その程度のこと――なんて一言で済ませたら、僕の布団になってくれているこのひとはたいそう心外な眼差しを送ってきそうなものだけど――、今更驚くほどのものでもなかった。それほどまでに、このひとの存在は今や僕の中にしっかり根付いて、日常の一部と化してしまった。
 健康診断の結果なんかをいちいち聞いたりはしないけれど、背丈と身体の肉付きからして、その目方は七十キロは下らないはずだ。僕の、がりがりではないけど比較にもならない胸板を枕にして静かに寝息をたてている。ときおり唸るくらいで、いびきなんかはもってのほかだ。淡い色をした細い髪が、朝日を受けてきらきら光っている。まだ誰も足を踏み入れていない、夜のうちに降り積もった雪野原みたいに。
 静かなひと、だけどそのきつく結んだ口のずっと奥底で、言葉にしきれない想いがたゆたって、芽吹くときを待っている。分厚い雪に覆われた土の下には、黙って春を待つ草花の種が数多埋まっていて、それを頃合いを見ながら少しずつ花開かせる、そんなひとなのだ。焦って一度に咲かせてしまって、土が痩せることのないように。
 出会ったばかりの頃はそんな調整もうまくいかなかったみたいで、立派な大人の姿なのに小さな子供みたいにうろたえるさまを見て、面白いひとだなあと僕は呑気な感想を抱いたりもしたものだけど、変な話、つくづくよく育ったと思う。ぐしゃぐしゃになってしまった浴衣のかわりに、貸してもらった洋風の寝間着、その上半分は袖も裾も持て余してしまうほどだった。
 そんなに厚い生地ではないから、お互いの身体の感触やなんかは布越しに簡単に知れてしまう。呼吸のたびに胸や腹を押し返す動き、ゆったりと脈打つ心臓。そして、心臓からずいぶんと離れたところに、微妙にずれた鼓動が押しつけられている。
 若いなあ。こんな涼しい顔してるのに。ふたつの意味で感心しながら、つられて昨夜の記憶を巻き戻そうとする身体に喝を入れるべく、掛け布団の内側に手をやった。しっかり厚い肩が冷えていないのに安心して、軽く揺さぶりながら耳元に口を近づける。
 「川端さん」
 「ん……むぅ……」
 本人の前では絶対に言わないけれど、僕がこのひとのことを可愛いと感じるのはこんなときだ。以前、よく眠れなくて薬の世話になっていたとも聞いているのもあって、起こすのがかわいそうにもなってくる。無理やり退けて起こしてしまうよりは、というのはひとえに僕のわがままだ。僕としても、この温もりを手離してしまうのは名残惜しいし、生理現象は如何ともしがたいものなんだけど、やっぱり昨日の今日というやつで気になってしまう。
 しばらくすると、僕がもぞもぞやっているのに気づいた川端さんの瞼がうっすら開いた。くすぶっていた暖炉に火が入るように、瞳の奥に芯が灯っていく。目が、覚める。
 「……!」
 重そうだった瞼がばちっと、勢いよく開くのがおかしくてつい噴き出してしまった。きまり悪そうにずるずる僕の上から隣に移動する、身軽になったのはいいけれど、その一方でなんだか淋しい気もするのは確かだ。乗っかられるのも密着するのも、嫌いではないんだけど、なんて何のてらいもなく言えてしまえるくらいには、僕も相当に毒されている。
 「すみません……とんだ失礼を……」
 「いいってば。よく寝てたね」
 カーテンの向こうはもう眩しいくらいの上天気で、耳をすませればすでに起き出して畑の手入れやら朝の体操やら、活動を始めているひとたちの声が遠く聞こえてくる。そこに交じるまでには至らないけれど、このまま布団に閉じこもるよりは何かしたい、そんな方向に僕の気持ちは傾きつつあった。
 「まだ七時前だけど、どうしようか。もう少し寝ているかい?」
 「――珈琲を」
 いかがですか、とすすめてくれながら半身を起こした川端さんの視線の先、ちょうど僕の真後ろには小さなテーブルと椅子のセットがあって、さらに奥の戸棚には昔ながらの、ハンドルを回すコーヒーミルや、電気でお湯を沸かせるケトルやなんかがしまってあって、私の給金で買ったものです、とわざわざ報告してくれたのを覚えている。時折、というかこうして部屋を訪ねたときに、手ずから豆を挽いて振る舞ってくれるのが、ひそかな楽しみのひとつでもあった。同じコーヒーでも、すぐ目の前にいる自分のためだけに手間をかけてくれたものが、ことさらに美味しく感じられるものだ。
 くしゅん、と川端さんが小さく肩をそびやかせて、拳骨が降ってこないか様子をうかがう子供みたいにこちらを見た。いくら体格がよくたって、上半身裸で布団からも出てしまえば、生まれた場所や長く過ごした場所は関係なしに寒いものは寒い。
 「あ、これ……ごめん、借りっぱなしだ」
 着るかい、と余った袖を差し出すと、川端さんは雨に降られた犬みたいにかぶりを振る。
 「いいえ、そのまま……整えて参りますので」
 少しお待ちを、そう言い残して、慌しくベッドを下りた川端さんは着替えを抱えて洗面所へ駆けていってしまった。忘れず点けていってくれたヒーターの、橙色の光に足先を差し出して僕もベッドを抜け出す。
 こうしてコーヒーをご馳走になるときのもうひとつの楽しみ、ミルのハンドルを回す手首にくっきり浮き上がる、いかにも強靭そうな腱を心待ちにしながら、昨夜椅子の背に掛けたきりの羽織に腕を通す。