comme a là radio

 談話室の一番奥、三人掛けの長椅子は、暇を持て余した徳田が縫い物に勤しむときの特等席だった。朝からのはっきりしない天気で筆の運びもふるわず、愛用の裁縫道具一式を携えて談話室を覗いた徳田は、そこを占領している者と、珍しく他にだれも居ないことに目をみはった。
 「――川端さん、」
 かけた声が耳に届かなかったのか、川端は長椅子の真ん中に膝を揃えて腰掛け、瞑目していた。眠っているのかもしれない、静謐としたその姿は、まるで陶製の人形のようだ。
 足音を潜めて近づくと、応えのなかった理由はすぐにわかった。彼の両耳からは細いコードが伸び、両手で包むように持った小さな機械に繋がっている。煙草の箱をひと回りほど大きくした艶消し銀のそれは、角のひとつから細いアンテナを伸ばしていた。
 「ラジオ?」
 何を聴いているのかと気になったのは、恋人ならではの好奇心だ。そういった間柄になってから相応の時間が経ったけれども、なにぶんにも川端のほうが寡黙なために、まだまだわからないところが多い。わからないまま物理的距離ばかりは零を通り越してマイナスに至ってしまった、若い身体がゆえの抑えのきかなさを噛みしめる。
 それにしても、と徳田は裁縫箱を足元に置き、身を屈めて川端の寝姿に見入る。ぴったり閉じた長い睫毛は一本一本が細く、そのぶん密生していて、呼吸に合わせて時折ふるりと震える。かすかに開いた唇のおもてがかさついているのを、もったいないな、と咄嗟に思ってしまった己を恥じる。
 (でも本当に、つくづく綺麗だよなあ……)
 おおよそ闊達さとは縁遠い、隠者のようなたたずまいだ。重い色合いの衣をまとって地に足をつけようとしているかのように、彼の肌も髪もその色は淡く、生への意欲もここに来たばかりの頃はもっとずっと希薄だった。今は瞼の下にある残照が、夜の底では酸素を噴きかけられた蝋燭の炎と化す。彼が生に執着できる理由、そのひとつに自分が含まれているというのが、徳田にはまだ信じられずにいた。
 (昔の『僕』はさて置いて、今の僕はまだまだ未熟で、地味だし)
 それなのにどうして、と常々思い、事あるごとにうっかり口に上らせてしまっても、あなたがいいのです、の九文字で片付けられてしまう。それを丸のまま受け取って済ませられればいいのに、さらなる理由を求めてしまって、ひとりになったときに己自身の面倒臭さに歯噛みするのだ。
 ガタン、払った足が木製の裁縫箱を蹴りつけた。途端に白磁の瞼がばちりと開き、徳田の姿をとらえて狼狽する。柱時計を一瞥し、あわあわとイヤホンを耳から捥ぐように抜く。
 「――と、徳田先生、」
 「ごめん! 起こしちゃって」
 「いいえ、……眠っては、おりませんでしたので」
 ひと呼吸置けばいつもの、ゆったりとした物腰を取り戻す。
 川端は少しばかり尻をいざらせ、一人分以上は悠にある長椅子の端を勧めてきた。徳田もそれには逆らわず、羽織を解いて手摺りと川端の間に座る。
 「何聴いてたの、」
 川端は手の中のラジオからイヤホンを抜いた。男性の声が一定の抑揚を保ったまま、地名と風向き、気温などをひたすらに読み上げていく。BGMも何もない、淡々とした調子が空恐ろしささえ感じさせる。
 「なんだい、これ」
 「天気予報、です。専門的なものだとか」
 言われてみれば、時折喫茶店や大衆食堂などのテレビでよく見かける、若い女性アナウンサーが指示棒片手に明るく告げるものとは趣きがまったく違う。あれは国内の天気だけを誰でもわかりやすいように伝えるのが目的だ。ヘクトパスカルってなんだろう、と聞きなれない用語に徳田は首をかしげるしかなかった。
 「ほんとだ、漁業気象って言ったね、今」
 海の上の天気など、陸で暮らす自分たちにはまったく縁のないものだろう。ともすれば知る必要もないことかもしれない。それでも川端は、ずいぶんと熱心にそれを聴いているようだった。それこそ、イヤホンまで用意するくらいに。
 川端さんは、こういうのが好きなの。聴いていて意味がわかるの。尋ねたいことはいくつもあったが、口にしたらどれもこれも彼の趣味を責め立てる響きにしかならなさそうで、ただ黙ってラジオの声に耳を傾けた。
 北緯、東経、南緯、西経。ひたすら暗号ばかりを聞かされているようで、しかし意味がわからないながらも、その声から意識を外せない。
 「――私たちは」
 一瞬、ラジオが喋ったのかと思った。
 「文字の異界に蔓延る魔を屠るのが、当面の生業です。海を越え、広い世界をこの目で見、地をこの足で踏みしめるなど、おそらく叶わぬことでしょう。先のことは、わかりませんが」
 川端の語るとおり、自分たちのような存在が海外旅行など、現実的にも恐ろしく難しいことだろう。戸籍もないのに諸々の手続きがすんなりと進むとは、到底思えない。そういえば前はこの国の外には出たことがあっただろうか、と、徳田は図書館で読んだ己の自伝を頭の中に引き写した。
 「……ですが。想いは、なにものにも縛られることがありません」
 たとえばじっとりと熱気のむせ返る海辺。車道にまで迫り出した商店の軒先。耳の中で反響を起こす、活気に溢れた人々の声。熟しきった果実の匂い。
 またあるいは耳も鼻先も、吐息さえも凍りそうな常冬の街角。振り仰げば高い尖塔の天辺から、人々の日々の行いを見下ろす十字。街の名前、天候、気温、それだけの情報で架空の情景を構築し、そこに自分の、もしくは大切なひとの姿を投影することを、誰が咎められよう。誰しもが胎に金の卵を抱いているようなものだ。
 「成程ね。文章を書いて、誰かに読んでもらうのも、似たようなものかもしれないね」
 音声と文字の羅列との違いはあるが、受け手の頭に仕事をさせるという点では大きな差異はないように思われた。
 いつのまにか気象番組は終わり、川端の手の中からは正時のニュースが流れていた。とある文化施設の保管庫から見つかったという何某の未発表原稿は、つい先頃、この図書館での浄化が完了したものだ。
 「もし、さ。もし、僕たちが何処へなり自由に旅をしていいってことになったら――」
 連れ立って行きたい、というのは女々しすぎるだろうか。
 口をつぐんだ徳田を川端はしばらくじっと見つめていたが、やがてわずかに口元を綻ばせた。
 「案外そうなったら、何処へも行かないかもしれませんね」
 「そう?」
 「迷い犬がようやく、腰を落ち着けたようです」
 「……たまに中庭で遊んでやってる、あの子のこと?」
 扱い方がわからないので徳田はいつも遠巻きに眺めているが、ずいぶんと従順な仔のようだ。あれだけよく懐かれれば、確かに数日の別れも惜しくなるかもしれない。
 しかし尋ねると川端は、熾火の瞳をすがめてこう答えたきりだった。
 
 「――淋しい子でした。今は、そうではないようですが」