14号室のアリス

 身の丈に迫るほどの弓を軽々と引く彼の腕は、常日頃から黒い長手甲に覆われている。第二の皮膚のように、その動きを妨げないしなやかさで肌に寄り添い、細身ながらもしっかりと筋肉ののったその輪郭をあらわにする。
 そんな、風呂か寝台の上以外で外されることなどめったにないそれを、昼を少し回ったくらいの部屋の中、ちょうど自分の真隣で、徳田秋声はぺろりと剥がしてみせたのだ。中指にかけた留め輪を抜いて、果物の皮でも剥くように。
 象牙細工のような手首の骨の隆起が陽の光を弾いて、部屋の主、川端康成は息をのむ。繰っていたページの中身も、一目散に頭の中から逃げ出してしまった。
 せっかくの先生の御本なのに申し訳ないことをした、とそっと隣を窺うと、あらわになった手の甲を目の前にかざして、うーん、と眉根を寄せて唸っている。大きく指を広げているせいで、五指の付け根から手首へと繋がる腱がくっきりと浮き上がる。
 「せ、先生」
 現代の言葉でいうところの、いわゆる『おうちデート』ならぬ『お部屋デート』である。調度類以外は皆さして造りの変わらない自室に招き入れ、めいめい思い思いの時間を過ごす。川端は自費で購入した徳田の本を読み、徳田は持参した大きな裁縫箱を開け、頼まれ物をひとつ仕上げたのち、端が少しほつれた川端の襟巻を繕っている最中だった。思わず呼びかけた声に、薄墨色の瞳が振り返る。
 「どうかなさったのですか」
 どこかに針を刺しでもしたのだろうか。特技に数えられるくらいに針仕事に長けた彼のことだから、そんなへまとは無縁とは思うけれど。
黒目の丸さがわかるほど大きく目を見開いていた徳田だったが、ほどなくして眉を下げ、わずかに頬をほころばせた。
 「たいしたことじゃないんだけど。ほら、これ」
 手甲をまくった右手を川端の目の前に差し出し、肌の上を指でたどってみせる。手首の親指側から、中指の付け根を頂点として、小指側の窪みまで、ちょうどいつも長手甲に守られているその境い目の外側が、浅く日に焼けていた。
 「この間室生くんの庭仕事を手伝ったんだけど、少し外に出ただけなのにこんなになっちゃって。帽子も借りてたし、これでもできるだけ直射日光には当たらないようにしていたんだけどね」
 こうしてみると、無事な部分との差は顕著だった。元の肌色が白いだけあって、うっすら赤みを帯びた灼け痕が痛ましくさえ見える。
 「僕らの時代は、夏っていってもここまで暑くはなかったのにね。今の人たちは大変だ」
 まじまじと己の日焼け痕を眺めて嘆息する徳田の、伏せた瞼に目がいった。密生した睫毛が、なだらかな弧を描いて伸びる。器具で無理に跳ね上げたり、化粧品で長さをごまかしたりしない、生のままの美しさがそこにあった。
 「ここのところの気温だって、三十度より下がった試しがないし。建物の中は涼しいけど……ちょっと出ただけで蒸し殺されそう」
 切り揃えた襟足の髪が一筋ふた筋、うなじに貼りつく。
 白い道着に、半襟と帯垂れは縹色、濃紺の袴。腰の羽織や肩の装具は省かれ、柄物は一切身にまとっていないせいか、涼しげな印象がいつも以上に際立つ。その彼が熱に喘ぐ姿を思い浮かべる。
 たとえば急な買い物を言付かって、首筋や額に浮かぶ汗をしきりに拭いながら、真上から照らす太陽に苛まれてほたほたと街を歩くさま。火照る頬、鶴の首のように細く、すんなりした首筋も、容赦なく灼かれていく。赤く腫れて、熱を植え付けられて、元来の硬質な白さが失われる。今自分たちが向き合っている、文学に起こった異変とどこか似てはいないか。
 「痛くはないのですか」
 肌色の変わる境い目を、彼が先程したように撫でる。ちりちりと細かな電流が川端の指を刺す気がした。
 「このくらいなら平気だよ。……でも、川端さんは真似しないほうがいいと思う。こう言っちゃなんだけど、僕以上に日光に弱そうだから」
 あくまで注意喚起のつもりで、彼はそう言ったのだと思われた。けれど川端はあえて、からかわれたのだと解釈してささやかな意趣返しをしたくなった。
 好き同士ふたりきりでひとつ部屋にいて、やはり何かしら色めいたことがあってもいいだろう、そんな心の動きからかもしれない。あるいは好きなところのひとつである白い肌が、いつの間にか侵されていたのが面白くなかったのかもしれない。ともあれ、肩を真っ赤に焼きすぎて夜中にうんうんうなされる、そんな子供のような浅はかさとは、自分は無縁であると主張したかった。
 恭しく支えていた徳田の手をおもむろに口元へと運び、薄い手の甲の皮膚にかぷりと、唇だけで噛みつく。眼差しだけでじっと見上げると、徳田の頬にたちまち朱が昇る。
 「――徳田先生」
 指の関節ひとつひとつに口付けていくと、くうう、と喉を鳴らして眉をしかめる。そういえばふたりして寝台に寄りかかっていたのだったと、今更ながらに思い出した。自分は老境の隠者でも、無垢な子供でもないのだと、思い知らされるのはこういうときだ。
 「な、なんなの、急に」
 「デート、ですから」
 「いや答えになってないよね? って、ぁ、っ」
 指の先はことさら敏感なようだ。
 慌ててもう片方の手で口をふさぐと、徳田は川端の指を逆に絡めとり、悪さができないように自分の膝へと押さえつけてしまった。もう、と深いため息混じりにひと言絞り出したきり、黙り込む。
 「先生……」
 「場所を、考えてほしい」
 しばらくして付け加えられた声は低く、どうやら怒らせてしまったらしいと川端はそれを聞いて判断した。自分は調子に乗りすぎ、あるいは欲をかきすぎて、徳田は今日ばかりはそういうつもりではなかったのだ。少しだけ期待した自分がいるのは認めるが、だからといって無理やり押し進めて、これ以上場の雰囲気をぶち壊しにしてはならない。
 短く詫びて己の手を取り返そうとしたが、徳田の指はぎゅっと川端を締め上げたまま、緩まる気配がない。何事か、と俯いた頬を覗き込むと、あいかわらずそこは紅潮したまま、薄い唇がきつく噛みしめられている。
 「あの、先生?」
 「……だって、」
 消え入りそうな声の続きを辛抱強く待つ。
 「人がいるじゃないか」
 「――ひと、ですか、」
 「両隣。北原さんと森さん」
 今は居ないようですが、と答えかけた言葉を喉奥に飲み込んだ。
 今この瞬間、部屋の主が中にいる、もしくはいない、それ以前に、そこが誰かの居室であること自体が、徳田にとっては大問題なのだ。平穏な日常を好む彼は、たとえば逢いびきの現場を誰かに知られてしまうことなど、けっして望みはしないだろう。
 森は昼間は補修室に詰めているし、居室は裸火厳禁とされている以上、北原も心置きなく煙草を吸える場所にいるのだろうが、いずれもまったく自室に戻ってこないとは言いきれない。そんなときにちょうど、あらぬ声を聞かれてしまっては。
 「どこまで、するつもりだった?」
 って、今聞いても意味ないか。
 ひっそり呟いてようやく、徳田は指の力を緩めた。畳の上にあった川端の襟巻を取り上げ、手早く糸端の始末をつける。引き出しが開かないように鍵をかけた裁縫箱を提げて、立ち上がる。足早に上がり框まで移動して、そこでようやく川端を振り返った。
 なかなか離れなかった手。場所を考えてほしい、ここでは人に聞かれてしまう。重たげな裁縫箱は長く持ち歩くには嵩が張る、つまり。
 「少し後から来てよ」
 「……えっ、」
 「僕の部屋」
 遅いほうが、むしろ助かるかも。
 そそくさと草履に足を突っ込み、野兎を思わせる素早さで、小柄な体躯が扉をすり抜ける。
 ばたん、と閉じた扉を川端はぼんやり見送った。上階の足音も、扉の外の気配もまったく聞こえない。一陣の旋風が通り過ぎていったようだ。
 寝台の上にざっくり畳まれた襟巻を手に取り吟味すれば、気になっていた箇所は元通り、きちんと繕われていた。縫い糸を留めたあとの端がわずかに飛び出ているのはご愛嬌だ。
 いつも通りにそれを首元に巻く。最後のひと巻きは、わざと口元を覆うように。頬が仕事をしているな、と感じた。誰にも見つからないように――何か良いことがあったのだな、と見抜かれたり、ニヤけてんじゃねーぞ、と悪態をつかれたり、しないように。
 膝の上の本を、そっと枕元に置いた。僕のところに来るんだろう、と野苺の意匠が咎めるのをなだめるように、表紙の焦茶色をひと撫でする。
 「――さて。参りましょうか」
 はたしてかの人はどんな顔で、自分を出迎えてくれるのか。
 懐にしまった自室の鍵には、よく似た形の鍵がもう一つ、輪に通してある。おそらく、もう来ちゃったのかい、などと唇を尖らせながら奥へと通してくれることだろう。想いを通じ合わせてそれなり時が経つのに、いつまでも物慣れないそんな態度が愛おしい。もう一度襟巻を直すと、川端は自身の草履に足先を通した。
 ひと足ひと足、歩を進めるたびにちりり、ころころと懐がさえずる。ふたつの鍵がぶつかって、共に括ってある鈴が鳴いている。足を弾ませれば、軽やかなそれらの音も追従して跳ねる。らしくない、かもしれない、けれど穴に落ちた先にもまた楽しみが待ち受けているのであれば。
 二階ぶんの階段をまずは一歩、緋色の絨毯に足音を吸わせて、あの日焼け斑の手の裡へ、自ら落ちにいくのだった。