はらにおちるもの

 この身体でも風邪はひくんだなあ、と、秋声は熱に潤んだ瞳で天井を見上げた。電灯もつけていないのに辺りがやたら眩しくて、頭の芯がじくじくと疼く。
 昨夜から予兆のような気怠さはあって、もちろんそれに備えて早めに床に就いたのだが、そんな努力も虚しく、翌朝目覚めた秋声を襲ったのは頭蓋を箍で締め付けるような痛みと発熱であった。
 「潜書当番、大丈夫かな」
 また新しい有碍書が見つかって、その侵蝕度合いを調べるために各武器種で練度の高い者が内部に潜る、というのがこの図書館の不文律となっていた。
 朝方、目覚めて症状を自覚するなり司書に連絡を済ませて、今日はあっさりと非番になったわけだけれど、それが逆に落ち着かない。こんなときに古株の自分が休むことは必然、他の弓使いの面々への皺寄せにつながるわけで、だいたいは生前から縁浅からぬ仲の者たちなのだが、それでも心苦しいことに変わりはない。口では面倒事を厭うていても、なんだかんだで真面目に取り組んでしまうのが秋声の習い性だった。
 「今度、何かで埋め合わせしないと」
 薬を飲んだ安心感とで、頭痛は早くもぼやぼやと鎮まり始め、意識が枕を突き抜けそうだ。布団の温もりも手伝って、瞬きひとつひとつが重くなる。
 (そういえば今日、誰が替わってくれたんだろう)
 仲間たちの顔を順繰りに、閉じた瞼の裏に思い浮かべる。秋声の次に転生し、練度も近い国木田か。それとも館内最高のクリティカル率を誇る島崎か。
 (誰に頼みましたって、司書さん、言っていたっけ)
 お礼をしなきゃ、そう考えながら秋声は身も心も深々と布団に委ねる。ほどなくして、静かな寝息が部屋の空気を揺らし始めた。
 汗で前髪を額に貼りつかせながらも、眉間の皺を解いた面差しは安らかである。そんな寝顔にお目にかかれるのは、同じく弓を扱い、生前は作品の傾向さえも同じくした仲間たちくらいのもので――青い、と評すれば彼はまた拗ねてしまうのだろうが、現在の若い見た目にふさわしい柔らかな一面もまた、周囲の者が放っておかないところでもあった。


 ぬかるみに落ちたような眠りから秋声が覚めたのは、ひとえに空腹のためだった。薬を飲むためにひとくちだけ飲み込んだ粥はすっかり消化されつくしている。食欲が湧いてきたのは良いことなのだろうけれど、
 「こんな時間に食堂に行っても、誰もいないよね……」
 昼食どきを半端に過ぎた今の頃合いでは、厨房の職員たちも引き上げてしまっていることだろう。それでも何かしらにありつければと、汗を吸った寝間着を替えて自室を出る。ひょっとしたら疲れがたまっていたせいもあるのかもしれない、朝方よりも軽く感じられる足を食堂へと運んだ。
 案の定がらんとした広間に、ひとり湯呑みを傾ける華奢な影があった。
 「秋声? 具合はもういいの」
 「……島崎」
 秋声の近づく気配に、知りたがりの友人は双葉のような髪の房を揺らして顔を上げる。若菜色の瞳が物憂げにひとつ瞬いた。
 「まだ少しだるいけどね。っていうか島崎、君、もしかして今まで――」
 「うん……補修が終わって、今さっき報告書を出してきたところ」
 秋声たち弓使いが補修室の世話になる機会は少なかった。ある程度経験を積むにつれて、攻撃を受ける前にかわせる確率が他の者よりも高くなるためだ。しかし基本的に打たれ弱いため、ひとたび攻撃が当たってしまえば一発で戦闘不能に陥ることも珍しくない。秋声も転生したばかりの頃は、今ではあっさり倒せる敵の体当たりで戦意を削がれていたものだ。
 「悪かったね、いきなり体調崩したりして。本当は今日、休みだったんだろ」
 「そうだけど。……秋声は、ちゃんと休めた?」
 ほっそりした指先が頬に伸びてくる。低めの体温が火照った頬の熱を奪って、不意打ちの感触に肩をすくめた。
 「まだちょっと熱いね」
 「き、君の体温が低いんじゃないかな……」
 ため息混じりに返したところできゅうと腹の虫が鳴いて、ここまで降りてきた本来の目的を思い出す。と同時に、落ち着いたはずの体温がぶわっと頬を暖めるのがわかった。生きていれば当然の生理現象なのに、やたらと恥ずかしい。喉奥でひそめられた島崎の笑い声がよけいにいたたまれない気にさせる。
 「食欲があるなら、もう大丈夫そうだね」
 「うん、でもこの時間だし……お菓子で済ませるのもなんだかね」
 叶うなら、何か口当たりがよくて身体が暖まるものがいい、と思った。茶腹も一時というが、今の状態を考えると茶よりもむしろ、ココアや蜂蜜入りのホットミルクなどのほうがいいかもしれない。
 しばし首をかしげていた島崎は、あ、と短く声をあげるとおもむろに席を立った。無人の厨房に入り込み、ごそごそと戸棚をあさる。
 「ちょっと待ってて、秋声。いいものがあるよ」
 「島崎、そんないいよ、わざわざ」
 「すぐだから待ってて」
 「いや、すぐって……」
 珍しく声を張った島崎を追って厨房を覗き込むと、ちょうど流し台の下から双葉の髪が飛び出したところだった。目の前に差し出された手のひら大の箱をまじまじと覗き込む。
 「これなら病み上がりでも大丈夫かなと思って」
 「スープって……時間かかるんじゃないのかい」
 「だから、すぐだよ。お湯沸かす間だけ」
 どこかうきうきと薬缶に水を注ぐ島崎に、余計な口を挟むのも野暮だと判断した秋声は黙って見守ることにした。とはいえひとりテーブルで待つのもつまらないと、邪魔にならない厨房入口に居場所を定める。
 島崎は箱を開け、取り出した小袋の中身をマグカップに空ける。それだけでかすかなブラウンシチューの香りが鼻先をかすめるが、カップの中身はスープの色をした粉末でしかない。いくら一度目の生と比べて飛躍的に技術が発展したとはいえ、粉を湯で溶いただけで美味しいスープができるものだろうか。
 そうこうしている間に薬缶が鳴きはじめ、ふたつのマグカップから湯気が立ち上る。しばらく中身を念入りにかき混ぜて、島崎はそれまで自分が掛けていた四人がけの卓にひとつずつ、それを置いた。
 「もうできたの、」
 すぐだったでしょ、とほんの少し得意げな親友の声を聞きながら、カップの中身を覗き込む。
 見たところ、具の野菜が若干しなびて見える以外は、鍋で調理したものとの違いがわからない。豪華でなくてもいいけれど、どうせ同じ口にするのならおいしいもののほうがいいな、とは思う。
 島崎がテーブルについたのにならって、秋声は厚みのあるカップに口をつけた。とろみのある液体に息を吹きかけて冷ましながら、ひと口含んでみる。
 「……えっ、これ、ほんとにさっきの粉?」
 美味しい、と思わず洩らした声に、いつもぼんやりとしている瞳が猫のように細められた。
 「ね。便利だよね、今の時代って」
 注意深く味わってみれば少しの粉っぽさはあるが、味自体は街の手頃な洋食店で出されるものと遜色ないように思える。湯で戻りきらない野菜の歯ごたえも一周回って癖になるくらいで、気づけばカップの中身は空になり、腹の奥がふわふわと暖まっていた。
 こんな粉末がほんとうにおいしいスープになるのかと、最初は彼も少しばかり疑っていたが、持ち前の好奇心が働いて試してみたところ、すっかり気に入ってしまったのだという。
 「司書さんがたまに、忙しいからって妙なもの食べてるのは見たことあるけど、こんなにおいしいものもあるんだね」
 お裾分けの品であることも忘れて、おかわりを恋しがってしまう。空気を撫で揺らすような笑い声に目を上げると、人形めいた面差しが柔らかく綻んでいた。
 「よかった」
 「なにが?」
 「うん、少しは元気になってくれたみたいで」
 元気にと言われても、他の親友たちのような若者らしい騒がしさは持ち合わせていない。それでもそう見えるのだろうかと尋ねてみると、島崎は珍しい微笑顔のまま、跳ね髪を揺らして深くうなずいてみせる。
 「見ればわかるよ」
 そんなにわかりやすいだろうか。思わず自分の頬に手をやった。
 若い見た目をしていても、一度人生を全うした認識はあって、こうして転生するまでの間に世界はすっかり様変わりしてしまっていて、少なからず気を張っていたふしはあったように思う。唐突に始まった二度目の人生を、他の者たちのように心底から受け入れて楽しむ余裕などなかった。それが今頃になってようやく、現れ出てきたということだろうか。
 「それとね、」
 陽が昇りきる直前の空のような淡い笑みのまま、島崎は続ける。
 「僕が選んだものを、秋声に気に入ってもらえたっていうのが嬉しいんだよ」
 万人に好まれる性質でないだけに、仲良くしてくれる相手のことはことさら大事にする彼の、殻の内側にある柔らかな一面が垣間見えたようにそのときの秋声には思えた。昔も今も自分を想ってくれているのがわかるから、たまに苦言は呈しこそすれ嫌いにはなれない。
 「そりゃ、おいしいものには罪はないからね」
 冗談めかして、肩をすくめて答えると、島崎はまったく毒気のない笑顔を浮かべてみせた。いつもそうしていればいいのにと思わされる反面、不用意に見せて回りたくない独占欲めいたものがちりちりと胸を灼く。彼の屈託のない一面も、わかる者にだけ通じればいいのだと思う。それこそ自然主義の仲間内だけでだって構わない。
 「ねえ、せっかくだから感想聞かせてほしいな」
 それでもその無邪気な笑顔のままで、身を乗り出してくるさまは実に彼らしいもので、いやだよ、と軽く返しながら、秋声もまた頬をほころばせたのだった。


 「何やってんだよ、入んねえの?」
 小遣い稼ぎがてらの手伝いもひと段落して、冷たい麦茶を求めて食堂を訪れた石川は、入り口に貼りつくようにたたずむ長身の男に目を留めた。梅雨も近い昨今、さすがに普段着は薄手の着物に変わったが、まとう本人の雰囲気がどうにも重い、冬のものなのだ。髪や肌の色素の薄さを差し引いてもそれは変わらない。
 中が何やら気まずいことにでもなっているのか、彼の隣から首を伸ばして覗き込んでみると、何のことはない、弓使いふたりが談笑しているだけだった。とはいえ、見た目も性格も比較的おとなしいほうのふたりである。飲み物を片手に笑い合う絵面はなかなかに珍しい。
 別段踏み込みづらい要素などないように見えるのだが、と訝しんで振り向くが、彼はあいかわらず戸口に半身を隠して室内をうかがっていた。圧の強い灯色のまなざしが、室内の一点を認めてふっとやわらぐ。
 「あいつらに用があったんじゃねえのか」
 「……用なら、半ば済んだようなものですから」
 言葉すら交わしていないのに用が半分済んだなんて、やっぱり彼の言うことはよくわからない。悪いやつではないのだろうけれど。 渇く喉の求めに逆らわずにずかずかと入り込んでいっても、石川の背中に咎める声がかかることはなかった。

追記文章
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