バニラビーンズの更夜

 「……目、閉じて。鏡花」

 落とした照明の中で聞くその声が、いっとう好きだ。
 昼間はさんざん可愛くないことばかり綴る、あまり芯の強くない低い声は、時と処を変えただけで香を焚いた煙のように柔らかく、鏡花の耳からその内側へ溶け込んでいく。
 外界を闇色の紗幕が覆うこの刻限、後のことはさておくとして、必ず接吻の了解をとるところから始めるこの男の律儀さを、鏡花はひそかに愛していた。言われた通りに瞼を下ろせば、まずひやりとした指先が唇をつつく。先触れのそれが済めば、いよいよ顎を上げさせられて、淡く薄荷の香る唇が呼吸を止めにかかってくるのだ。
 触れ合った薄い皮膚が心もちかさついているのは、ひとまず大目に見ておこう。もう少し寒くなって、伝わる体温よりも、唇のおもてを引っかく皮の捲れが気にかかるようになるまでは。
 重なって離れて、唇の上下を緩く食む、普段は憎まれ口しか叩かないその器官は、今だけは素直に鏡花を求めてくる。いつもそうであってほしい、などと贅沢は言わない。四六時中甘くされたのではさすがに胸やけを起こしてしまうし、どれだけ深い仲になったとしても、兄弟弟子の間柄は残しておきたい己がいる。
 つまるところコミュニケーションの一環として、自分はこの男、徳田秋声には過干渉でありたいのだ。随分と回りくどいとの自覚ならある。
 ご機嫌伺いをしてきた舌先を出迎えれば、軟い肉質と薄まった歯磨き粉の味が遠慮なく口中を侵す。背中に添えられていた手のひらは、今や逃がさないとばかりに鏡花の後頭部をしっかりと捕まえていた。さり、と己の髪が擦れる音、ふたつの舌が互いを掬う湿った響きに、忙しない吐息が重なる。酸素が足りない頭がくらめいて――いや、違う、これは息ができない所為じゃない。
 そう気づくのと、ふかふかしたものが頭を受け止めるのと、天井を背にした青年の顔が視界を占めたのはほぼ同時だった。黒髪を無造作に切った淡白そうな顔立ちが、鼻先が掠めるくらいに肉迫する。
 「いい?」
 「――え、」
 「きみ、潜書も助手も、当番もないよね、明日」
 尋ねる声はあくまで落ち着いたまま、顔つきだって一粍も動じた様子がない。ただその薄墨色の瞳だけが、身じろぎすら許さない鋭さで鏡花を仰向けのまま縫い留める。
 「ない、です……けど」
 拒む理由などないけれど、即答するにはためらいがある。なんだかがっついているようで軽蔑されたくない、そんな今更な心の働きだ。何もかもを明け渡してしまってもう何度目、いや十数度目にはなろうかというのに。
 それでも彼はきわめて行儀よく、鏡花の次の言葉を待っていた。
 「ないですけど」
 「うん、」
 「なんだか、……その、恥ずかしいじゃないですか」
 涼しげな瞳を擁する、彼の瞼の細かな動きは、この至近距離だからこそ追えたのだと思いたい。かっと拡がった睫毛の密生、その合間で真ん丸い煙水晶が揺れて、それから沈む夕日のように細められた。笑われたのだと悟るや、たちまちに頬が熱くなる。
 「――変なこと言ってる、とか思ったんでしょう、どうせ」
 「べつに?」
 生娘でもあるまいし、笑いたければ大いに笑えばいい。でも本当にそうされたら、それなりに傷つくかもしれない。
 「変だとは思わなかったけど」
 あいかわらず平板な声で、いつもむっつりとしている口許は、付け入る隙を見つけたとばかりに、片側の端だけがわずかに上がっている。企み事でもありそうな、しかし頬をくすぐる指は優しかった。
 「まあ、悪くはないかな」
 「それはどうも、ありがとうございます」
 腹に一物抱えた風に目を交わし、どちらからともなく噴き出していた。彼とこうして笑い合える日が来るなんて、百年前の自分は予想すらしなかっただろう。再会したばかりの頃こそあからさまに避けられていたものの、紆余曲折を経たのちに最も穏当な距離感を見つけて、今のような関係に落ち着いたのだ。
 「で、どうなの」
 「何がです――ふ、ぁっ」
 寝間着越しに脇腹を撫でられ、シーツの上で身悶える。艶めいた雰囲気が一瞬遠ざかったおかげで忘れていたが、刻は夜更け、ここは自室の寝台の上、相手は歳上の弟弟子にして恋仲の相手である。まさかここまでとは誰であろうと察しはつくまい、とうそぶく余裕もとうに奪われていた。
 拒否権はない、とはこれまた、目の前の男の常套句である。そもそも寝間着姿で相手を部屋に招き入れた時点で、その後の展開などひとつしかなかったのだけれど。
 「駄目、とは言いませんし、明日の予定も特にありませんけど。せっかくの休みなのに、一日臥せっているなんて厭ですからね」
 常識的な加減をしてください、と請うと、秋声はいかにも面倒ぶってわずかに眉根を寄せた。
 「ざっくりした注文だなあ……まあ、努力はするよ」
 それがあくまでそぶりでしかないのは、口元の緩みで一目瞭然である。解かれた帯がするりと腰の下から抜けていき、素肌を滑る指先に吐息が詰まる。
 彼のいう努力はおそらく実を結ばず、明朝の自分は重い腰を抱えて口を尖らせるのだろう。それすらも見越してしまっている自身に呆れながら、鏡花は今度は請われる前に目を閉じた。

追記文章
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