当身の顛末(または『和解』を朗読せよ)

 「……ふうん。またやるんだ、朗読会」
 関係者入り口脇の掲示板に張り出された、手作りらしいポスターを徳田秋声が目にするのもこれで何度目だろう。
 図書館内のイベントとして不定期に行われるそれは、秋声たち小説書きにとっては聞き役としてしか縁のないものだった。短編ならば参加の余地があったのかもしれないが、あいにく秋声の書くものといったらどうにも長くなりがちで、万が一声がかかるとしたら、
 「また『ごん』の衣装を作ってほしいって、南吉くんから頼まれるかな」
 あとは当日、写真を撮ってほしいとか。そんないわゆる裏方仕事も、べつだん苦ではないのだけれど。
 街で買ってきたお茶請けの菓子を談話室の菓子鉢に適当に補充して、自室へ戻ってきたところで、扉の下に封筒が一通挟まっているのに気がついた。いつから始まったのだか、館内では文士たち同士の手紙のやり取りが盛んで、部屋の扉脇に小さな郵便箱を備えつけた者もいる。秋声はといえば忙しさにかまけて結局何もしないままで、だから彼宛ての手紙はこんなふうに扉に直接挟めつけられるか、あるいは手提げ袋に入れてドアノブに引っかけられるか、そのどちらかだった。
 荷物を置いてひと息つくのもそこそこに、文机の引き出しを探る。しっかりとした厚みのある洋型の封筒は、その紙質も明らかに上等だ。いつもの手紙以上に気を遣いながら、糊付けの隙間にペーパーナイフの先をねじ込む。
 「……ん?」
 中身は封筒とお揃いの、繊維を漉き込んだ二つ折りのカードだった。開いて中身を一読するなり、秋声は誰も見ていないにもかかわらず首を傾げる。
 「宛先違い……じゃ、ないよね」
 もうすっかり癖になってしまっている、すっきりとした眉の間に深い皺が寄る。
 『第○回帝國図書館朗読会・参加ノ御願ヒ』、カードの見出しにはそう書かれていた。ひそめた眉はそのままに、傾けていた首の角度が九十度により近づく。
 (参加? 御招待じゃなくて?)
 カードの内容を読み進めるにつれて、涼やかな切れ長の瞳までもが胡乱げに細められていく。そして一通り目を通し終えて、
 「――嘘だろう……」
 洩れた声は暗澹としていた。まぎれもなく、それは招待状だった。平穏な日々を望む者を、息つく間もない波乱のさなかに突き落とす、そんな。
 げんなりと顔を歪めながらも、文末の『ご不明点は特務司書まで』の文字を認め、鋭い溜め息ひとつとともにカードを元通り折り畳む。封筒に収めたそれを懐に突っ込み、すっくと立ちあがったその背は、着物の中に芯を仕込んだようにいつも通りまっすぐだった。
 脱いだばかりの草履をつっかけ、部屋を出る。
 書いたものが広く読まれてほしいと願う気持ちは、物書きならば多かれ少なかれ持ち合わせているものだ。たとえ生活のため、金を稼ぐために書いたものであってもそれは変わらない。我が子を世間に送り出すのと、たぶん似たようなものだ。だから、登壇する側として声をかけてもらえたことにはさしたる不満はもっていなかった。せいぜい、事前に相談のひとつもあればと思うくらいだ。けれど。
 「そもそも、なんであれを……しかも、あいつと二人で組んでだなんて」
 どのみち表舞台へ引っ張り出されるのなら、演目くらいは自分で決めたって良いのではないか。もちろん一人あたりの時間配分やなんかもあるだろうから、まったく自由にとまではいかないだろうが、さすがに今回のは一方的過ぎやしないかと思ったのだ。
 ましてや、かつての秋声は地味だなんだと言われながらも、自然主義文学の大家と称された男である。己自身やその周囲の人々――家族だけでなく知己に至るまで、とにかく身の回りに題材を求めた。面倒をみていたかつての兄弟子の実弟が亡くなって、それがきっかけでなんとなく交流が再開するなんて、筋書きだけをとればドラマチックかもしれないけれど。
 「それを本人が演るだなんて、ただの晒し者じゃないか」
 疎遠になっていた兄弟弟子の顛末を描いた自著『和解』を、その当事者二人が読み上げること。それが秋声ともうひとりに科せられた当日の役割だった。
 三階の踊り場に降り立った秋声の目の前に、下階からすたすたと上がってきた白っぽい人影が躍り出る。失敬、と詫びながら一歩飛び退いたのは、まさにその、もうひとりの当事者だった。
 「鏡花……」
 「……あなたでしたか」
 溜め息と、失望をはらんだ声がこのときばかりは同調する。
 亜麻色の髪に、紫がかった灰色のぱっちりとした瞳。西洋の娘人形のようにたおやかななりをしながらも、こぼれる声ばかりはしっかりと低い。汚れひとつない白手袋が握りしめていたものに目が留まってしまって、もう見過ごすことはできなかった。自分の懐にあるのと同じ、高級そうな洋封筒だ。
 「それ、朗読会の」
 「ええ。――丁度良いです、その件でちょっと」
 「って何が……ちょっと、鏡花!」
 泉鏡花はさばさばとした口ぶりで答え、やにわに秋声の袖をつかむと、つかつかと階段を昇り始めた。指先も、腕だって秋声よりは細いのに、思わずつんのめるくらいにその力は強く、振り払おうかどうしようか迷う間に元来た道を戻らされる。『〇七八』とプレートの打ちつけられた扉の前でその足はようやく止まった。
 「僕の部屋? ……散らかってるけど」
 「今回は目をつぶります。さ、早く開けてください」
 偉そうに急かしてくるくせに、部屋の主に先んじて上がり込むこともなく、失礼します、とご丁寧に断りを入れてくる。彼のそういった振れ幅の激しさに、今も昔も、秋声は振り回されていた。
 潔癖な彼のために電気ポットのスイッチを入れ直し、折り畳んでいた卓袱台の脚を広げると、鏡花がその上に抱えていたクリアファイルの中身を広げる。司書がよく睨み合って唸っている書類によく似たそれを一枚取り上げてみれば、他でもない自分の小説を印字したものだった。
 「司書さんにお願いして、全文を印刷してもらいました。さっそくですけどこれを元に、台本をこさえてくれませんか。僕は一切、口は出しませんから」
 「ちょっと待ってくれ。君はそれでいいのかい」
 「何がです」
 「……僕と組んで、朗読会に出ることさ。しかも『これ』で」
 鏡花が持ってきた紙束を丸めて筒にし、卓袱台を叩く。文字の書かれたものを粗末に扱うそのそぶりに、柔らかな曲線を描いていた眉が釣り上がる。
 「編集なんかするより、演目自体を変えてもらったほうがいいんじゃないの。もっと短い話だって探せばあるし、そもそも別に僕の書いたやつでなくたって」
 「本番まであと何日だと思っているのですか。演目だって、司書さんにも何か考えあってのことでしょう。それをあなたのわがままでふいにするなんて――」
 「わがままって!」
 「僕には」
 鳩羽色の瞳が、やや上目気味に秋声を捉えた。
 「何の異論もありません。あなたの作品を読むことも、あなたと共に朗読会に出ることも」
 白手袋の手がついと伸び、秋声の手から紙束を取り上げる。開いた紙のよれを伸ばす手つきが愛撫のようで、思わず喉が鳴る。才能面では敵いもしない相手がそうやって、自分の作物を愛でていることに胸が昂ぶる。
 しかし、そこは鏡花だった。幽玄の世界を描く天才は、リアリストな弟弟子の期待を秒単位で叩き折ることにも長けている。
 「それに、せっかく僕らふたりに――尾崎門下である我々にお声がけをいただいたんです。今更断わったりしたら、紅葉先生にだってご迷惑がかかるでしょう」
 結局それか。唐突に挙げられた師の名前に、条件反射のように秋声の唇から溜め息が洩れた。
 鏡花の中では秋声も、また鏡花自身も、まずあの大きな影なしには成り立たないのだ。尾崎紅葉の一番弟子であることに固執する鏡花と、師事こそすれど個々の人間同士であろうとする秋声とでは相容れないのも仕方ない。にもかかわらず、鏡花は秋声にも良き『弟子』であることを求めるのだ。
 最初のうちこそはっきりと反発していた秋声だったが、そのたびに起こる衝突にほとほと疲れ果て、今では無駄な消耗を避けるために受け流すことを覚えてしまっていた。肯定も否定もしない、それ以前に常に物理的な距離を置いていれば、驚くほど平和だった。
 「……仕方ないなあ」
 「仕方ないって、またあなたは――」
 続きそうだった鏡花の文句は、折り良く沸騰したポットの電子音が遮ってくれた。

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