始まりがあれば終わりもある、それは何だってそうだ。沢から細く流れる湧き水は平地へと至るにつれてその流幅を増し、やがて海へ繋がる。その時点で、川としての役割を終える。
ひょんなことから始まった僕らの二度目の人生もまた、永遠に続くわけがないとわかっていたけれど、もとよりある目的をもって始められたものだから、それが果たされれば、長々と続けている理由など、本来はないはずなのだ。
文学書が害意ある異形によって侵され蝕まれ喰い潰される、数年前から観測されてきたというそんな現象も、このたびついに収束の旨が時の政府から告げられた。もはや危機は去った、我が国の文学は守られた、のだとか。
めでたく。
今を生きる人々にとっては、そうなのかもしれない。
だけれど僕ら――侵蝕現象鎮圧のために、魂を行間から掬い上げられた存在にとっては、それは死刑宣告に等しかった。
だって、もう我々の存在意義は、倒すべき敵は、いなくなってしまったのだから。
ある者は渋々と納得し。
ある者は、そんなのは嫌だとさんざ泣き喚き。
またある者は何も語らぬまま、粛々と残りの日々を送り。
僕はといえば、
「のう、鏡花よ」
煙管の灰を落とした紅葉先生が、斜向かいに侍る僕を呼ばれた。
「汝はそれで良いのか」
豊穣の色を湛えた御髪も、初夏の若葉の如く輝く瞳も、今夜が見納めだ。
「今生を味わいつくすと、旅に出た者も居るようではないか。……面子からして、そのまま戻らぬやもわからぬな」
「もし逃げ果せたら、どうなるのでしょう」
「さあ、な。或いはアルケミストの術からは、何人も逃れられぬかもしれん」
アルケミスト、僕らを紙幅の狭間から呼び覚ました特務司書。長く苦楽を共にした彼女もまた、この一週間ほど姿を見ていない。もっともこちらの居場所は明白で、ずっと司書室に閉じこもっているようだった。僕らを還すのもまた、彼女の役目である。うかつに館内を出歩いて、顔を合わせるのが厭なのだろう。一週間前、皆さんとお別れせねばならなくなりました、と僕ら全員の前で告げた彼女の両目は滝と化していた。
言うなれば世界最後の日、どう過ごすかは各々の勝手だが、僕はずっと紅葉先生のお側に控えていた。前生から縁のあった方々や、今生で深く語り合うことのできた諸先生方とは、既に最後の時を分かち合っている。今日ばかりは先生と共に在りたいのだと話せば、皆快く送り出してくれた。
『生まれ変わりというものが、本当にあるとしたら』
此度のような作為的なものでなく。
『また、貴方とこうして語り合いたいです』
彼らから僕へと送られたその言葉はそのまま、僕から先生へと渡したいものでもあった。
「鏡花、本当に良いのか」
繰り返し掛けられたお声に顔を上げた先の、先生のお顔は心なし険しかった。
「もう、誰と名残を惜しまずとも良いのか」
「はい。思い残すことは、ありません」
「秋声とは話したのか」
心の臓が跳ねた。押さえようと挙げかけた手は、不自然にならぬようそっと膝の上におろす。
「いいえ」
「何故だ」
「この期に及んで、話すことなど」
「今だからこそ、とは思えぬか」
なぜ、先生はこんなにも彼にこだわられるのだろう。
かつて先生が果無くなられてからの、僕と彼との間に生じた断絶は、時を越え肉体が換わったところで埋まりようがなかった。彼は僕を疎んじて逃げ回り、僕はそれが我慢ならずに追い回して窘めれば、どうせ、とひねた口を利いてまともに向き合う姿勢すら見せない。後になってようやく、他愛ない言葉を交わせるくらいまでにはなったものの、結局互いに相容れないという事実を突きつけられただけだった。
「最後に見るのが僕の顔だなんて、彼もぞっとしないでしょうから」
元々折り合いが良くなかったり、些細なきっかけで袂を分かったりした方々も、この図書館には居た。芥川さんと島崎さんとか、芥川さんと久米さんとか。それでも結局は互いに心地よく在れる距離を見出して、大きな問題なく仕事をこなせることができるようになっていた。大人になった、とでも言うのだろうか。
僕らにも一応は、それらしいものがあったのだろうが、それはついぞ守られることがなかった。主に、僕のせいで。
ぎりぎりまで僕は、彼にも自分と同じ紅葉先生の弟子であることを求めずにはいられなくて、彼は彼でひとりの物書きとしての対等な立場を主張し続けた。その延長で、当てつけのように己の才の薄さとやらを嘆いてみせる彼に、ときには手をあげたりもしたものだ。平手であったり、ときには襟首引っ掴んで頬に拳をめり込ませたこともある。
やり返してくればまだいいものを、彼は――秋声は腫れ上がった頬を押さえてじんねりと僕を睨めつけるだけで、そのうちぷいとどこかへ引っ込んでしまう。彼の眼が植えつけた、もやもやとした悪感情の種は僕の胸で芽吹いて、彼の姿を目にするたびに、これをどうにかしろと掴みかかりたくさせるのだ。
そんな相手のことなんて、もう今生を限りに縁を切りたいに違いない。のこのこと自ら出向くなど、
「鏡花、面を上げよ」
考え事の最中でも、先生のお声は聞き逃してはならない。
はっと顔を上げた僕の目の前が翳った。
「あ痛っ」
びしっ、と額を打たれる。手刀を構えた先生が、ふんと鼻を鳴らした。
「行ってまいれ。早よう」
秋声のところに行けと、先生は仰るのか。
「ですが」
「言い訳はよい。早よう行け」
「でも――あうっ」
「我の言うことが聞けぬというのか」
空手チョップと後の世では呼ぶらしい、とにかく先生はごつごつと僕を打ち据える。それでも僕はその場から動けなかった。
「申し訳ありません、僕は……僕は――」
涙声、雫を吸った手袋の替えはもうない。
正直なところ先生の手刀は然程痛くはなくて、僕を泣かしめていたのはいよいよもって最後の時が近づいているという、その事実だった。こうして先生に叱られるのも今夜が限り、彼の不機嫌そうな眼差しを目の当たりにすることも、ない。このまま僕が動きさえしなければ。
それで良いのか――良いはずがない。だが、怖いのだ。
「鏡花よ」
じわり痺れの残る頭に、優しい温もりが載った。
「心残りがあるのであろう?」
先生の手によって、僕は一介の幼子に成り果てる。撫でられるがままに、膝に取りすがってぼろぼろと泣き崩れた。お着物を涙と洟で汚されても、先生は構うことなく、慈母のごとき手であやしてくださる。
「我はこうして、汝らの背を床の中からでなく見送ることができた、そのことに悔いは残っておらぬよ。前よりも短くはあったが――充分に生きた」
少しだけお声が震えたような、でもそれは、追及してはいけないのだろう。
すう、と息を整え、鏡花、と先生はまた僕を呼んだ。
「悔いなく生きよ。それが我の、今生最後の汝への教えだ」
良いな、と念を押されては、これ以上ぐずぐずとはしていられない。
鼻を鳴らしながら身を起こすと、先生はまずい顔だな、と苦笑いしながら、袂から出した手拭いを僕に握らせてくださった。
「先生、」
しっかりと立ち上がり、向き合えば、先生の目の高さは僕と然程変わらなかったことに気がついた。沓を履けば、先生の背丈を追い越してしまう。それが恐れ多くて、一歩下がってずっと後ろに付き従っていた。
「もし、また生まれ変わったとしても、僕は……」
伝えたいのに、涙が邪魔をする。
ついには御自身の袖で、先生は僕の顔を拭ってくださる。目元を擦る指の温かさにまた涙、微笑みかけてくださる先生の御目も潤んで、最後の最後まで、僕は手のかかる弟子だった。
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