うたかた度数、三十六度

 息を吸い込んだ唇の冷たさに、徳田秋声は自身が眠りから目覚めたことを認識した。有碍書の中でも雪が降るのが妙に納得できてしまう、真冬の夜更けである。夏や秋ならば虫や蛙の鳴き声も遠く聞こえたものだが、辺りはほぼまったくの無音であった。
 昼過ぎから降り出した雪は故郷の金沢を思わせるほどに積もり、公共交通機関の混乱ぶりをラジオで聴きながらも、ここ帝國図書館にて起居する文士たちは極めて暢気なものだった。いつもより早めに閉館し、一般職員が帰途に着いたあと、
 「今日のぶんの潜書が済んだら、いっちょ雪見酒と洒落込むか」
 誰が言い出したのだったか、ともあれご褒美が待っているとなれば俄然張り切ってしまうのが、彼らが第二の人生を謳歌している何よりの証拠である。
 なまじ外に出られないだけに、食堂と談話室の二元中継で執り行われた宴会はこれまでになく盛り上がり、いつもならそこそこで自室に引っ込む秋声も、それなりの量を胃腑に収めた。そして、
 「……ん、」
 右の上腕にかかる重みも、目が覚めたときからわかっていた。血が鬱滞した指先が、じんわりと痺れている。少し首を捻れば、闇慣れた目に丸い頭の輪郭が飛び込む。その色合いまでは判然としない、が、自分と同じ黒髪でないのは明らかだった。
 どうしよう、と自問するのは、実際にとれる手段がまったくないときだ。自分でない誰か、たとえば神様が、現状を打破する妙案をもたらしてはくれないだろうか、そんな淡い期待を込めて、どうしよう、と人は呟いてしまうのだ。
 (明日、何て説明したらいいんだ)
 説明したところで、信じてもらえるものか。
 前髪がかかってしまっているが、無心に眠っているそのひとの睫毛はすらりと長く、密生していることを秋声は知っている。潜書でさんざん消耗した彼の寝姿を、ちょうど助手を務めていた都合で盗み見たことがあったからだ。起きているときには、近づけもしない相手だから。

 「どうしてあなたはそうなんですか、秋声!」
 「『そう』ってなんなのさ、いったい……」
 確か、談話室で自然主義の彼らと杯を傾けていたはずだった。
 酒が入って気分も足取りも軽くなった文士たちは、複数人でテーブルに陣取る者もいれば、蜜を求める蝶のようにその間を渡り歩く者もいて――師を部屋まで見送ってきたらしい彼は、最初のうちはまだ可愛げのある蝶だったのに。
 「きみ、相当飲んだんだろ。もうそのへんにして、部屋に戻って寝たら?」
 「またそうやって!」
 「だから、何が『そう』なの」
 十分後、たちの悪い毒蛾がそこにいた。
 秋声の左隣にぼすんと腰を下ろした彼が、友人たちの勧める酒を素直に干した時点で怪しいと気づくべきだったのだ。言いがかりのようにぐなぐなと絡みついて、気づけば引き剥がすこともできないくらいしがみつかれて、引きつり笑う田山と観察に勤しむ島崎、国木田の視線が痛い。
 「ええ、ええ。わかりました。あなたがそのつもりならねえ、秋声、」
 ぐん! と腕を引き上げられる。大きくよろけながらも踏み止まった兄弟子は、八センチ上から目線で秋声の鼻先に白い手袋の指先を突きつけて、
 「今夜は寝かしませんよ。ひと晩腹を割って話そうじゃありませんか」

 (って言っておきながら、真っ先に寝たものね)
 秋声の腕を枕に寝息をたてる鏡花は、いつもの羽織と足袋を脱いだきり、秋声自身のいでたちも似たようなものだった。
 素面ならきっと、いや絶対に、湯も使わずに床につくなんてありえないだろう。だから明日の鏡花も、今夜のことを自分から仕掛けたなんて信じない。どうことが運ぼうが、秋声が割りを食うのは決まっているのだ。
 (それなら、もう、いいや)
 どうせ叱られるのなら、こちらもいいようにさせてもらおう。
 起こしてしまわないようにそっと動いたのは、せめてもの情けだ。腕を持ち上げて鏡花の身体を自分に向けて転がし、がら空きだったもう片方の腕を背中に回す。酒の残り香と、彼自身の匂いがふわりと近づく。
 寒さのせいにして抱きしめた。すっかり寝入っているひとの体温はふくふくと暖かい。
 (こんなこと、どうせ、金輪際叶いやしない)
 強く念じてしまうのもまた、知らずのうちに次を期待している証拠なのかもしれなかった。

追記文章
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