回り道シフォン

 お釣りで好きなものを買っていいって、まったく、子供じゃないんだから。
 そう口では言いつつも、少しでも口実の一助になれば、と喫茶を併設するその店に、二人連れ立って入ることにした。図書館内ではどうしても周りの目を気にしすぎて、ついつっけんどんな口をきいてしまう。市井の人を装ってみれば、いくらか反応も違うと思ったのだ。
 「本当に良いんでしょうか、買うものを買ったらさっさと帰ったほうがよいのでは」
 とためらいながらも、ずいぶんと可憐な容姿をした兄弟子――泉鏡花はメニューの紙挟みを広げ、うんうん唸っている。きちんと火の通った、安心して食べられるものを探しているのだろう。
 「紅葉先生がそう言ってたんだから、素直に甘えたほうがいいんじゃないの。そりゃ、君からしたら僕なんかと同席なんてぞっとしないだろうけど」
 返した言葉の後半分は、余計な憎まれ口というやつだ。昔のあれこれは、一応片がついた心算でいるけれど、それでも自分よりも先にかの人の弟子におさまった技量は否めないし、翻って自分の星巡りの悪さを思うと、ついそんな皮肉めいた言葉が口をついてしまう。
 「しゅうせ――……」
 目をむいた彼は一瞬のちにはっと我に返って、思わずいつもの通り椅子から上げた腰を元通りに下ろす。
 「『なんか』なんて、そんなこと言うものではありませんよ」
 その居住まいの悪さが伝染してか、それともやはり場が違うせいか。どうせ僕なんて、と居直るはずが、返す言葉すら見つからなかった。
 たとえ義理であっても、寄り道に付き合ってくれたことは掛け値無しに嬉しいと思う。また相手が相手だけに――いつも顔を合わせれば刺々しい口論になってしまうだけに、こうして比較的和やかにいられるのは珍しく、新鮮な気分でもある。
 「まあ、僕と一緒が苦じゃないんなら、いいけど」
 「そんなこと――あるものですか」
 頬骨のあたりがぴりぴりと熱を帯びる。向かいに座った彼も、もそもそと身を縮こめるようにして椅子に収まっていた。
 さて、改めてメニューに目を落とす。この店の名物は紅茶味のシフォンケーキで、一度この店を訪れたことがある司書が大絶賛していたものだ。話を聞いた秋声も若干気にはなったが、何より敏感に反応したのが自分たちの師であった。何かの折に買ってきてほしい、と所望され、一人で出かけるはずが、せっかくですからと彼がおまけのようにひっついてきて今に至るというわけだ。
 午前中は有碍書の浄化にあたっていた秋声はそれなりに空腹ではあったけれど、度過ぎた潔癖症である兄弟子を差し置いて、一人でケーキにありつくのもさすがに若干、気がひけた。師匠の手前だいぶ自重してはいるが、鏡花も甘いものはけっして嫌いではない。ただ口に運ぶまでがいろいろ厄介なだけで。
 しかし。
 「これが、司書さんお勧めのシフォンケーキですか」
 「……」
 「なんだかふわふわしていますね……」
 「……」
 こくん、と唾を飲み込む音を聞き逃しはしなかった。
 ドリンクメニューから目を上げれば、藤紫の瞳がケーキの写真をまじまじと見つめていた。
 卵白を泡立てたメレンゲを生地に加えたシフォンケーキは、一欠け口に含めばたちまち融けて消えてしまうほど軽い食感をもつという。しかし、だからといって即注文を、といかないのは前述した通り、鏡花の潔癖がゆえである。前世においてはそもそも外食をせず、自宅で供されるものはもちろん、店で購ったものであっても、火で炙り直すことなしには口に運ばなかったという。今でも、できたての料理ならば基本的には安心して食べているようだが、それ以外は食堂に備えてもらったアルコールランプが大活躍することになる。
 目で食べんばかりの勢いで写真に注がれていた鏡花のまなざしが、ほどなくしゅんと曇った。何だろうとメニューを覗き込めば、切り分けたケーキの傍らにくるくる絞られた生クリームが鎮座している。ケーキだけならば妥協もできようなものだが、さすがに生クリームは炙れない。そもそも店の中に煙草以上の火気を持ち込むなどご法度だ。
 (まさかとは思うけど、あのアルコールランプを持ってきたりなんてしてないよな……)
 そこまで物知らずではないだろうけれど。
 それにつけても鏡花の萎れきった顔ときたら、少女めいた顔立ちとあいまって、こちらの庇護欲を容赦なくかきたててくる。今でも図書館内や潜書中に向けられる、厳しいそれとのギャップは始末に悪い。それでも再会したばかりの頃よりは、ずいぶんと当たりが柔らかくなったものだ。
 「僕は、紅茶だけにしておきます。秋声は好きなものを――」
 「いや、僕もコーヒーだけでいいよ。一服したら早く帰ろう」
 渡されたケーキメニューを一瞥する。名物の紅茶味に、バニラ、抹茶、チョコレート。
 「で? 買って帰るのは、紅茶味ふたつでいいのかい。それとも、別の味にするの」
 開いたままのメニューを返すと、鏡花の瞳が丸くなった。
 回りくどいのは百も承知だ。また、あの熱を伴うびりびりが頬を襲う。
 彼ほどではないけれど、到底及ばないかもしれないけれど、自分だって歩み寄る努力をまったくしていないわけでは、ないのだ。

追記文章
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