真空の中のベッドルーム

 「島田くん起きてる……うわぁっ」
 居室を覗き込むなり視界に飛び込んできたものに、秋声は悲鳴を上げかけてとっさに己の口を手でふさいだ。取り落としそうになった、司書から預かった合鍵をしっかり握り直す。じりじりと頬に熱が上っていくのがわかる。あまりまじまじ見つめるものではないと思いつつも、目が離せない。離れない、といったほうが正しいかもしれない。
 転生して間もない、文士たちの中でもかなりの問題児と目される男の部屋にはまだ家具が揃っておらず、がらんとした六畳間の真ん中に敷かれた布団がやけに目立つ。その白い敷布の上に横たわる、ほぼ肌色の塊が部屋の主――島田清次郎の現在の姿だった。
 足音をひそめて畳の上へ一歩踏み出す。ごてごてと鎖やらベルトやらのついたいつもの服を布団の周りに散らばして、秋声よりもひとつふたつ年かさに見える男が、下着一枚で肌掛けを抱えている。布地の少ない、ぴったりとした黒い下着は肝心なところをかろうじて隠すばかりで、ともすれば全裸よりもたちが悪い。
 「なんて格好で寝てるの……司書さん、寝間着とか一式渡してなかったっけ」
 無駄な肉のついていない、それでいて華奢ともいえない硬質そうな身体を、胎児のように丸めて眠る横顔は、いつもの傲岸不遜な言動とは縁遠い。寄る辺のない幼な子のようなその姿こそが彼の本質なのではないか、そんな気にさえさせられる。
 ともあれ、起こして食事をさせないことには一日が始まらない。思いのほか薄い肩に手を伸ばし、軽く揺さぶりながら声をかけた。
 「島田くん、そろそろ起きないと」
 乾いた薄い唇が小さく開き、んあ、とため息混じりの呻きが洩れる。長めの前髪の下から、蒼い瞳が気怠そうに現れて辺りをうかがう。なんだ秋声か、などと不明瞭につぶやいて、
 「……秋声ッ?」
 次の瞬間、ばちりと目を見開くや否や勢いよく起き上がった。
 「な、なんでアンタがここに」
 「なかなか起きてこないから、司書さんに鍵を借りたんだよ。食堂閉まっちゃうから、何か食べるなら早く支度しなよ」
 その格好で胡座をかくのは勘弁してくれないかな、とほぼ全裸に近い島田の姿を視界に入れないようにしながら答える。同性同士なら恥ずかしがる要素もないのかもしれないが、かといって相手の裸をまじまじと観察する趣味も持ち合わせていない。
 秋声は目の遣り場を殺風景な室内に求めた。文机以外に家具らしきものはなく、数少ない私物は机や床の上に直接置かれている。文机の下に丸めて押し込まれていたものを怖々引っ張り出してみると、それがまさに探していた島田の寝間着だった。藍染めのそれはそこそこにくたびれてはいるが、長いこと洗わずに放っておかれた感じもない。着るつもりで出しておいてそのまま放置されたようなおもむきだった。
 「そんな格好で寒くなかったの、」
 とりあえず隠してほしいとばかりに突きつける。受け取られこそしたものの、悪態さえも返ってこないのがさすがに不安になって横目で窺い見ると、島田は渡された寝間着を難しい顔で胸に抱え、口をつぐんでいた。
 「……島田くん?」
 下手に泣き叫ばれるよりも、黙り込まれてしまうほうがよほど怖い。何を求められているのか、さっぱり見えなくなってしまうからだ。薄味ではあるものの、彼の顔立ちはこの図書館に呼び起こされた文士として例外ではなく整っており、切れ長の瞳や細い鼻梁は剃刀のような鋭さをたたえていた。
 「――昨夜は、着る気がしなかっただけだ」
 「昨夜?」
 ぼそりとした呟きを聞き返しながら、会派一覧の中に彼の名が挙げられていたのを思い出す。昨今、比較的軽度の侵蝕がみられる本がまとめて運び込まれており、島田を含めた練度の低い文士たちを中心に潜書会派が組まれていた。そういえば昨日、夕飯時の食堂に彼の姿はあっただろうか。
 「ずいぶん遅くまでかかってたみたいだね」
 「はっ、これも力を求められし者の定めというやつか……さしものオレも、危うく己の闇に飲み込まれるところだった」
 「……あー、うん、なんとなくわかったよ」
 補修に長い時間がかかり、ようやく自室に戻れたのもおそらく夜更け過ぎだったのだろう。本の中で受けた傷や心の揺らぎは癒えても、肉体に刻まれた疲労は簡単には消えない。湯を浴びるのも億劫で、服だけ脱いで布団に倒れ込んだといったところか。そう当たりをつけながらふたたび島田の様子を窺って、ふと気がついた。
 まともな調度のひとつもない、がらんとした部屋。おそらく布団もずっと敷きっぱなしなのだろう。そんなところで身にまとうのは、いささか心許ない浴衣一枚。
 「――あ」
 普通の、というのも語弊があるだろうが、肉体の病で厄介になる病室ならば、目を慰める花の一輪もあったろう。それすらも、ここにはない――彼の、かつて切望しながらもついぞ出ることの叶わなかった場所に、この部屋は図らずも似てしまっている。疲れた眼には、尚更そう映ったはずだ。
 秋声のまなざしに気づいているのかいないのか、島田はしばらく寝間着を抱え込んでじっとしていたが、やがてかっと目を見開くと、ばさりと勢いよく布地を広げて、外套でも扱うように肩に羽織った。おざなりにだが帯を結んで立ち上がる足取りはしっかりとしており、背筋もまっすぐ伸びている。
 「秋声。アンタ、飯は」
 「え、ああ、もう食べたけど……お茶くらいなら付き合うよ」
 ふん、と満足げに口角を引き上げる島田の表情は、もうすっかりいつも通りの、向こう見ずな野心に満ちあふれたものだった。文机の脇の籠から替えの下着を取り上げ、その足が向かうのは居室備え付けの浴室だ。
 「そうか。ならば、帝王を名乗るに相応しく身仕舞いを整えて来なければな」
 待っていろ! と指を突きつけ、寝間着の裾を翻して脱衣所に消えていく背中を見送ると、おのずと溜め息が洩れる。ほどなくして聞こえてきた水音を背にして、秋声は半端に開いた障子から差し込む陽光に目を細めた。違うのは、きっとここくらいのものだろう、障子の向こうにある硝子窓は、自分の意思で鍵を開け、存分に外気を取り込むことができる。
 とはいえ、棚のひとつくらいは置くよう進言してもいいかもしれない。文机の上にうず高く積まれた本の山を眺めていると、扉の開く音とともにふわりと空気が動いた。寝間着をゆるく着つけ、頭からタオルをかぶった島田が、鼻歌でも歌い出しそうな顔で籠の中から着替えをあさっている。
 「ねえ島田くん。朝ごはん食べたらさ、買い物にでも行かないかい」
 潜書があるならその後でもいいけど、と続けると、顔を上げた島田がにやりと笑った。引っ張り出したシャツの裾がほつれているのは、質が悪いのでなく元からそういう仕様なのだそうだ。
 「買い物か。ふむ、悪くはないな!」
 乗り気になってくれたらしく、布地をばさばさとはためかせながら島田は普段着を身につけていく。その頭上から滑り落ちた深紅のタオルを、秋声は畳に落ちる間際に受け止めた。
 「ほら、まだ髪濡れてる。ちゃんと乾かして」
 細身のパンツに脚を突っ込んでいる背後に回って、半乾きの髪をタオル越しにかき回してやると、一瞬びくんと肩を跳ねさせながらもされるがままになっている。
 「ふ、ふふ……アンタくらいのものだぞ、オレがこんな狼藉を働かれて黙っているのは」
 翻訳するに相当嬉しいらしい。こうして機嫌良く、おとなしくしている状態が続けば館内の平和も、秋声の心の平穏も保たれるのだろうけれど、それは同時に彼らしさを否定してしまうことにも等しい。結局目の届く範囲で見守りながら、事が起これば軌道修正を図るよりほかないのだ。そこそこに厄介ではあるけれど、
 「そういう宿命なのかもしれないなあ……」
 「なんだ、何か言ったか秋声」
 こっちの話、とタオルを除けて、乱れた髪を手櫛で直してやる。絡みつくカシス色の細い髪は、解きほぐしたあともしばらく秋声の指に気配を残していた。

追記文章
top