零距離射撃

 侵蝕者、と呼ばれるそいつらについては、人々の文学にまつわる負の感情が具現化したもの、という説明しか受けていない。洋墨瓶や丸めた反古紙に手足や尻尾が生えているのから、一応人の形をとっているのまで、とにかくいろんなやつがいる、というのは辛うじて知っていた。
 そして今日になって、さらにわかったことがある。
 本の世界の奥底に陣取る、その世界での親玉のようなやつ。そいつらは往々にして、弱い者を狙い撃ちにする。ただでさえ攻撃を避けきれないところに、遠慮会釈もなく二撃目、三撃目をぶち当ててくる。
 弱い者を――狙い撃つ。執拗に狙われた者がすなわち弱者だ。
 そして自分は――正確には自分ともうひとり、目をつけられた。転生した順や経験の差はさておくとして、見くびられた。どう転がしてもいい者だと見なされた。馬鹿にされた。このオレが。
 全身を切り刻むような痛みとともに、耳元でわんわんと声が響く。その声の主は実在しないと、頭ではわかっているのにひどく苛々とさせられる。やめろ、と叫んでも声は止むどころか、いっそう高らかにオレを嘲笑う。自称天才、堕ちた天才。今はただの。
 「もう、やめてくれ……!」
 誰かが腕をつかんで引っ立てようとする。
 「島田くん、帰るよ。もう少し我慢して」
 どこかで聞いた声、オレが唯一頼りにしてもいいと思える声。でもきっとそれも幻聴だ、従ったら最後、もう二度と出られないところに閉じ込められてしまうんだ。
 「ああもう、おとなしくしてったら!」
 「……代わりましょうか」
 「大丈夫、川端さんは斎藤さんをお願い。……ほら、島田くん! しっかりして!」
 引きずられるうちに暴れる気力すら尽きて、オレの眼は灰色の地面しか映さなくなっていた。それすらも、まばゆいばかりの光にかき消される。
 何度経験しても、最悪だ。

 ***

 斎藤茂吉が転生を果たしてからというもの、補修の効率は格段に向上した。手伝いをしてくれる者ならば何人かいたのだが、やはり医療の心得がある者がいると心強さも違ってくるものだ。とはいえ、全員ある程度は戦闘経験を積んでおくべし、という特務司書の方針に従うとなると、当然どちらかが補修にたずさわれない状態に陥ることもある。
 カーテンで囲まれた二基の補修用寝台を前に、森鴎外は深く息をついた。潜書から戻ってきた文士たちを相手取るのは、毎度のことながらなかなかに骨が折れる。心身ともに深く傷ついた者たちには、こちらも気をしっかり持って臨まなければ、その負のエネルギーに飲まれてしまう。そういった意味でも、精神科医でもあった斎藤の存在は大きな助けとなっていたのだが、今回はその斎藤が補修対象者として担ぎ込まれてきたのだ。それから、
 (今回は、何事もなかったが)
 寝台を占拠するもうひとりを思い起こす。
 侵蝕者に傷つけられた者たちは、往々にしてひどくふさぎ込んだり、かつての肉体の不調をぶり返したりと自発的に動かなくなる者が多いのだが、数ヶ月前に転生した彼はその真逆だった。補修を受けることを――正確を期すなら医者という存在を、その手に身を委ねることを拒む。無理やりに寝台に就かせようとすればひどく暴れて、森ひとりでは手に負えない。
 島田清次郎。その来歴を思えば、そんな反応も仕方のないものだったが、
 (斎藤くんがやられているとなると――厳しいな)
 ふたりとも喪失状態にあり、ここに運ばれたときには意識を失っていた。ゆえに補修の処置を行うのには差し支えなかったのだが、問題はその所要時間だ。練度の都合で、どうしても先に転生した斎藤のほうが時間がかかってしまう。そして各人が持つ本の補修が終わる前に、目を覚ましてしまうケースもまれにある。たいがいはそのまま寝台の上で、身に残る苦痛をやり過ごすのだが、耐えきれず補修室を飛び出そうとする者もある。
 「……やはり、また彼に頼らねばならないか」
 島田をここまで担いできた、小柄な黒髪の青年を思い起こす。一番の古株で何かと頼りにされる彼の負担を、これ以上増やすのはためらわれたが、ならば相談だけに止めようと心に決める。
 最後に一度だけ島田の寝顔を確かめて、森はそっと間仕切りのカーテンから身を引いた。目元をわずかに濡らしたその横顔は、見た目よりも二つ三つ幼く、心許なく映った。

 ***

 今の自分たちに必要な場所だとわかっていても、この補修室とやらの雰囲気は好きになれない。それこそ理屈ではなくて、新たな生を得たときからこの身体にしみついている感覚だった。
 まるで呪いのように。
 島田は重い瞼を一瞬薄く開いて、しかしあまりの眩しさにふたたび閉じた。天井の蛍光灯は患者たちを刺激しないよう、寝台の真上よりずらして配置されているが、絶え間なく眼球のおもてを濡らす涙はかすかな光でさえも乱反射させて、チカチカと瞬くのが煩わしくてならない。
 寝返りを打つと、鼻先に柔らかなものが掠めた。薄目を開けて確かめてみれば、丸っこくて馬鹿でかい三毛猫のぬいぐるみがうつ伏せでシーツに倒れ込んでいる。いつだったか、秋声が生地のほつれを直しているのを見た記憶があった。
 取り上げて胸に抱え込むと、日向の匂いが鼻腔に流れ込む。とぼけた表情とずっしりとした重みはなぜだか手放し難くて、意識しないうちに両耳の間を繰り返し撫でていた。毛羽立った生地が指先に快い。補修は、あの忌まわしい時間は終わったのだと改めて実感する。
 潜書の傷が癒えないうちは、自分の皮膚感覚にだって気を配る隙がない。ただただ、見たくもない自身の内面と向き合うことを強いられる。
 こんな感覚にも、いつしか慣れるのか。何とも思わなくなる日が来るのか。自分を唯一理解してくれる黒髪の彼はどうなのだろう。彼がぼろぼろに傷ついた姿なんて見たことがない、いつだって庇われてばかりだ。今日だって、
 (そういえば)
 そこでようやく、島田は隣の寝台に意識を向けた。枕に頭を預けたままで視線だけを流し、
 「――あ」
 視界に飛び込んだものに息をのむ。
 空色の波打つ髪が白い枕カバーに散らばっていた。眼鏡を外し服をくつろげたその横顔が誰のものか、気づくのに少しばかり時間が要った。冷徹なまなざしは、今は青白い瞼の下に隠されていた。
 なぜ彼、斎藤が、面倒をみる側でなく自分と同じ患者のひとりとしてここにいるのか。有碍書の中でのことを思い出すにつれて、じわじわと憤りが込み上げる。
 腹に乗ったぬいぐるみにも構わず身を起こす。素足に触れた床の温度を感じる前にカーテンを払い除ける。金属製のカーテンレールが軋む音にも、閉じた瞼は微動だにしない。
 「……なんで、アンタは」
 今回の会派は島田と斎藤、ふたりの練度を上げるための編成とのことだった。筆頭をつとめる秋声は言うまでもなく、それに付き従う冬色の男、川端康成もまた、まだ経験の足りない自分たちを率いるに足りる経験を積んでいる。主な敵は秋声と川端が仕留め、その取りこぼしを島田と斎藤で片付けながら進んでいたのだが、
 『島田君、危ない!』
 いきなり突き飛ばされて、受け身を取る暇もなく地面に頬擦りさせられる。文句をつけてやろうと顔を上げた目の前で、シミもほつれもなかった白衣の肩が裂け、赤に染まっていった。
 とどめを刺しぎわに、敵は一本の矢を放っていた。貫いた者を道連れにせんばかりの怨念を込めた矢が、島田の胸のかわりに斎藤の右肩を射抜いたのだ。利き腕を潰されては銃を構えることもかなわず、傷口を庇いながら斎藤は膝をつく。
 こんなのは間違っている。自分たちが秋声や川端に比べて場慣れしていないのも、練度の高いふたりがとっさに反応できなかったのも否定はしない。ただ自分が守るべき対象とみなされたことばかりは、どうしても我慢ならなかった。
 まだ敵は残っている。くそ、と毒づきながら身を起こし、こちらを嘲笑うように宙に浮くそいつを睨みすえる。眼球そのものが燃えているかのように瞼の裏が熱い。
 鞭の柄を握り直し、腕を水平に大きく振り抜く。鋭い刃と歯車で構成された龍の顎門はあえなく弾かれ、鈍く光る鉄球が迫る。がつんとこめかみを、脳を揺さぶられて視界が暗転する。
 闇に堕とされた、そう認識すると同時に周囲にざわざわとさざめきが沸き起こる。ほどなくして解けるその声のひとつひとつが傲岸不遜の衣を引き裂き、臆病な青年の柔らかな肌に牙を突き立てる。耳をふさいでも止むことなく浴びせられる嘲りと愚弄をかき消したくて、叫ぶ。
 「来るな……来るなよお!」
 「島田くん!」
 名前を呼ぶ、唯一気遣わしげな声が誰のものか、そもそも誰かの声なのか。
 霞む視界の中、歩み寄る小さな草履の足が、せめて現実のものであればいいのにと願う。泥のように自分を呑み込む狂気から、引きずり出してくれないか。
 しかし呼吸は荒く浅く、酸素の足りない脳は、島田を追いつめる情景ばかりを突きつけてくる。帰るよ、と呼びかける声は、いったい島田をどこに連れて行くつもりなのか。
 肩を組むようにして身体を支えられながら、まばゆい光のただなかに飛び込まされる。真っ白な光は島田の視界も、意識も塗りつぶして、ようやく慣れてきたばかりの現世へ文士たちを導いたのだった。

 ***

 「……なんで、オレを庇ったりしたんだ」
 潜書中に受けた外傷は、現実世界に戻ると各々が持っている本に還元される。ゆえに斎藤の肩を射抜いた傷もすでに消え失せているのだが、どうしても手を伸ばさずにはいられなかった。
 シャツ越しに触れるのは硬い骨で、ぐぢゅりと指先が沈む矢傷ではない。傷はすでに癒えているのだから、日常生活にも執筆にも差し障りが出ることはないはずだ。それなのに、自分のために大切なものをひとときでも犠牲にした彼の行動が棘のように胸に刺さって、苛立ちを抑えられない。
 (アンタだって弱いのに)
 これが本の中ではなくて、自分たちが今暮らしている現実世界で起きたことだとしても、たとえば街を歩いていて、凶器を持った暴漢が島田めがけて襲いかかったとしても、それでも彼は同じことをするだろうか。
 やりかねない、と確信する。治療のためなら自分が傷つくことなどものともしない男だ。そう言い放った、堂々とした声を覚えている。己を蝕む闇を縫って耳に届いた、それは一条の光だった。
 (でも、それじゃ駄目だろう)
 医者が自分の命を放り出してどうする。憤りしか沸いてこなかった。
 他の者が同じことをしても、愚かな奴だ、と鼻で笑い飛ばすだけで済ませただろう。自分がこんなふうに腹を立てそうな相手といったら、唯一信を置いている秋声くらいのものだ。
 (オレは……秋声とこいつを、同列に置いている?)
 かつて何か繋がりがあったわけでもないのに、何かあれば相談に来るようにだのと手紙をよこしてきて、何のつもりかと訝しんだのは事実だった。やがて彼が精神科医でもあったと知って、疑問は諦念と失望へ変わっていった。彼も自分をどこかおかしいと感じていて、興味本位で自分に近づいたのだと――どうせ飽きればこちらには見向きもしなくなる、身勝手な奴だと思い込んでいた。かつてさんざん自分を祭り上げておきながら、醜聞と見るや手のひらを返してこき下ろし、嘲笑った世間のように。
 だけれど、そんな位置付けだった相手に身を挺して庇われてしまったことで、島田にはまったくわからなくなってしまった。
 (こいつはオレを、)
 ただの症例として、見ているわけではないのか。
 だとしたら――だとしても、斎藤が抱いているらしいその感情に、自分はどう応えるべきなのか。秋声にするようになりふり構わず押しかけていって、新作を押しつけて感想をねだったりすればいいのか。
 「……違うな、きっと」
 床に膝をつき、シーツに顔を伏せる。洗濯糊の匂いが鼻の奥にやたらとしみた。
 「わからないことだらけだ」
 他の奴らと比べて、構われてもさほどうっとうしさを覚えない彼相手にどう振る舞ったらいいのだろう。今は曖昧に返してはいるけれど、挨拶くらいまともにしてやったほうがいいのか。それだけでいいのか。
 向けられる好意への応えかたなんて、誰も教えてくれなかった。
 「しまだくん……?」
 耳にようやく届くほどのかすれた声が、名前を呼ぶ。
 寝ているふりをしたまま、思わず肩を震わせたのを悟られはしなかっただろうか。元いた寝台に逃げ帰ればよかったと、その時はそこまで考えが及ばなかった。
 空気を読んで寝直すふりでもしてくれれば、その隙にこっそり隣の寝台に戻れるのに。精神科医ならそのくらい察しろ、と内心で叫ぶ。
 「島田君」
 だが、相手はそんなつもりなど毛頭ないようだった。寝台のスプリングが軋んで、すぐ近くに気配を感じる――起き上がって、こちらを覗き込んでいるのだ。ひょっとしたら狸寝入りをしているのを見抜かれたのかもしれない。空気の読みどころが違う、と全力で訴えたかった。
 「……ああ、」
 頭の天辺に軽い温もりが載った。そのまま、小さく揺さぶられる。
 「心配させてしまったか」
 薄く笑いを含んだ穏やかな声は、ボリュームを抑えた以外はほぼいつも通りだった。耳障りな装置の音はもう聞こえない。補修完了、となれば長居する理由ももはやないだろう。
 自分のことなんて放っておいて、さっさと食堂なり自分の部屋なりに引っ込んでくれないか。そう思うのに、そろそろと島田の頭を撫でる手はいっこうに退く様子をみせなかった。するりと後頭部まで撫で下ろしたかと思えば、手のひらを載せたままつむじのあたりを指先でくすぐってくる。撫でられたあとはしばらくぞわぞわと震えが残って、落ち着かないことこのうえない。
 頭を撫でるなんて子供扱いか、と一瞬憤りもしたが、これは明らかに、子供にする触り方ではなかった。そして、
 (……あ)
 ふわりと頭の上から離れていくその体温を、かき消えていく余韻を、惜しいと思ってしまった。
 帝王とは孤高の存在であるべきで、馴れ合いや誰かの庇護などは必要ないと思っていたはずなのに、今は床の上でひっくり返っているあの縫いぐるみがひどく羨ましい。たかだか布と糸と綿でできた、火でも近づければ一発で焼損してしまう脆い存在に、あやかりたいとさえ思ってしまう。
 「島田君、」
 「うぇっ!?」
 肩を揺すられて反射的に顔を上げると、何にも遮られない金色の瞳がすぐ近くにあった。
 「その様子だと、補修は終わったようだな」
 顔色がよくなった、と間近で微笑まれて、いよいよどうしていいかわからなくなる。こんなに近い距離で他人と言葉を交わすことなどそうそうない。秋声以外では、せいぜい宇宙の帝王を名乗るあの尻尾野郎とやり合うときくらいだ。
 「あ、……あ」
 「そこでは膝を痛めるだろう。椅子を使ったら――」
 「ひ、必要ない!」
 頬の皮膚一枚下がざわめき、心臓が胸郭を突き破らんばかりに暴れ出す。いつもの自分が弾け飛んでしまいそうな、あるいはまったく違うものに塗り替えられてしまいそうな予感――これこそが闇の力の暴走なのだとしたら、目の前のこいつはとんでもなく恐ろしい男だ。やっぱり距離を取っておくべきだろう。とりあえず、今のところは。
 立ち上がり、ずっと床についていた脛が軋むのも構わず島田は補修室を飛び出した。勢いであの三毛猫のぬいぐるみを蹴飛ばしてしまったかもしれない。ちらりと後ろめたさが頭をもたげたが、斎藤のいるあの部屋に今は戻ってはいけないと思った。
 とにかく補修室から離れねば、その一心で廊下を走る。目の前などろくに見えていなくて、絨毯の色と違うものがあると気づいたのはそれをはね飛ばしたあとだった。
 「痛った……」
 柔らかくて青くて、自分よりひと回り小さいものが眼下に転がる。
 たたらを踏みつつもどうにか持ちこたえた島田は、その正体を認めるなり手を差し出してやった。袴の上に巻いた羽織と、体型を隠すように布地をたっぷり使った装束が冬場の雀のようだ。
 「補修、終わったんだね」
 「あ、ああ。……その、悪かった」
 「いいけどさ。食事の用意できてるから、行っておいでよ」
 根に持つ様子もなく衣装の埃を払った秋声は、
 「そうだ、斎藤さんはまだ?」
 まったく他意はないのだろう、その名を口にする。
 途端にあの金色の瞳が、穏やかな声が、髪を撫でる手の温もりが脳裡にまざまざと蘇った。全身の血が滾る、いや、葡萄酒にでも置き換わってしまったように、目の前がくらめいて熱くなる。
 「島田くん?」
 「あいつは……あいつはだめだ……!」
 「え、どうしたの急に」
 顔を覆った手の隙間から、秋声が上目遣いにこちらを伺うのがわかった。条件はさっきとほぼ同じ、なのにどうしてあの医者相手だとこんなにも心が乱れるのかわからない。秋声にもときおり頭を撫でられることはあるが、子供扱いされているこそばゆさばかりが先立って、ここまで取り乱したりはしないのに。
 「斎藤さんと何かあったの?」
 「な、なんでもない!」
 その答えが頬にあかあかと灯っているのに気づかないまま、振り払うように島田は叫んだ。

追記文章
top