!大型アプデ前設定をもとにした独自設定あり
!キャラの絶筆描写あり ※最終的には復活します

ワタシパラサイト

 じっとりと肌に貼りつく、湿った空気は黴びた洋墨の匂いがした。
 辺りに広がる無彩色の情景は、元はさぞかし色鮮やかに描かれていたのだろう。鬱蒼とした木々の、その葉の合間に覗く花も、青く瑞々しい香りをたたえていたに違いない。
 青黒い洋墨一色が描き出したそんな光景を、侵し蝕み、狂わせ、損なう、確かな意志がこの奥に存在する。文字と言葉が織りなす一個の世界を壊そうとするものたち――文学作品に巣食う異形。その中でもとびきりの厄介者が、この本には棲みついたようだった。
 (こっちの攻撃が全然通らないなんて)
 会派筆頭を務める黒髪の青年、徳田秋声は乱れた息を整えながら、注意深く周囲をうかがう。敵の気配が感じられない方向へ逃げてきて、つい今しがた撤退の旨を、現実世界で待つ特務司書に伝えたところだった。
 刀を握っていた右腕はじくじくと疼き、銃弾がかすめた肩口からは脈拍に合わせてどくどくと血液が、赤い泉のように流れ出る。持って行かれそうな意識を引き戻すように頭を振ると、目眩が尾を引くのと同時に、何人分もの荒い呼吸が耳を占めた。
 足元では自分たち四人の立ち位置を囲むように、細いけれど眩い光の筋が、円と複雑な図形の組み合わさった紋様をひとりでに描いていく。時折ぽたりと垂れる誰かの血がその動きを止めるが、すぐに血液は蒸散し、ふたたび地面にゆっくりと光が滑り出す。少しずつではあるが確実に、この場所から脱出するすべは確立されつつあった。
 (まだか……?)
 まるでペン先を迷わせながら描いているような軌跡。
 秋声は帰還の陣が描き上がるさまを見守りながら、共に潜書した三人の様子をうかがう。敵の攻撃をくらったおかげで、皆例外なく服のあちこちに綻びをつくり、その瞳からは生気が失せかかっている。身も心も消耗しきって、先のことすらも考えられない、そんな様子だった。
 中でも重たげな冬色の装束に身を包んだ、長身の男が目に留まる。
 ようやく覚えたばかりの多節鞭を振るっていた彼は、いつの間にか得物を元の長槍に持ち替え、それを杖代わりにして身体を支えていた。うつむいているせいで長い前髪が目元を遮ってしまって、かろうじて見えたのはぎりぎりと食いしばった歯、文字そのままの尖った犬歯が、唇の合間から覗いたところだった。
 ここは慣れた槍で戦ってもらったほうがよかったのではないか。鞭は弱い敵を一掃するのには有用だが、今回のように強い敵が単体でうろついているような場合には、決定打を与えられない。この一点においては司書の采配がまずかったといえるだろう。戻ったら武器種の編成について進言しなければ、と古株らしいことを考えながら、地を這う光の道筋を目で追う。
 (もうちょっと)
 もう少しで、帰還の陣が完成する。図書館に、日常に帰れる。
 だからもう少しだけ、持ちこたえてほしい。
 おそらくひどく険しい表情でいるだろう彼に、そっと念じる。
 言葉にして、彼以外の皆を励ますことも一瞬考えはしたが、傷つき追い詰められた精神を逆撫でするようなことは、とすぐに撤回した。戦いの場に私情を持ち込んで、特定の誰かに肩入れすることはよくないとわかっていたが、それでも秋声は彼のことを一番に考えずにはいられなかった。理由はふたつ――会派の中で彼がもっとも消耗しているから、そして彼、こと川端康成は、他でもない秋声の恋人だったからだ。
 かつて親子ほどの歳の差を隔てていた自分たちは、今では見た目で判断するに十歳と変わらず、しかも秋声のほうが若い身体と心を得ていた。今ともに戦っている会派の面々の中でも、外見だけならば秋声が最年少だ。実際は館内一の古株として、会派筆頭の大役を務めることに誰の異論もなかった。
 足元をゆるゆると這っていた光がその始点に帰りつく。完成した紋様が、どんよりした空へ向けて眩い光を放つ。さながら内側に立つ秋声たちを外界から隔てる、檻を形作るようだった。この澱んだ異界から離脱できる、そんな安堵感が、四人の文士たちをつかの間緊張から解き放つ。
 それがいけなかった。
 「が……っ!」
 呻き声、びしゃりと大量の液体が地に叩きつけられる音、むっと立ち上る血の匂い、それらがほぼ同時に秋声のすぐ隣で発生した。振り返った視界の端で、紅く輝く洋墨瓶が二射目の弾丸を練り上げるのを、銃遣いの文士が最後の力で撃ち抜く。空気に溶けるように消えていく敵の姿はたちまち光の壁に隠される。
 「川端!」
 光の筒の内側、地に膝をついた川端の、枯葉色をした羽織の背中、その中心よりやや左寄りに赤黒い染みが広がっていく。呼ぶ声に応じて顔を上げた男の口元から、おびただしい量の血液が顎を伝い落ちた。
 「かわばたさ――」
 あんなかたちで敵襲があるなんて。
 呆然としながら呼びかけた秋声に、川端はおそらく答えようとしてまた血を吐いた。墨色の着物がどれだけの血を吸っているのかはわからないが、もともと色素の淡い川端の頬は、今や透き通るようだった。
 「すみ……ません……、わたし、は……」
 しっかりとした体躯に見合わぬか細い声は、信じたくない結末を予感させた。瞳の奥に灯る熱はとうに失われ、瞼がじりじりと伏せられていく。
 「あとはもう帰るだけだ。帰ったらすぐ補修してもらおう、それまで――」
 周囲からの励ましの声に、川端は力なく首を振る。その動きにつられて舞い上がった髪の先が、ようやく身体を支える指先がほろほろと崩れていく。
 「菊池さんと、りいち、に……」
 絶筆。その二文字が秋声の目の前をよぎった。同時に、二の腕から首筋へ向かって冷たい手で撫で上げられたような、最大級の震えが走る。
 文学作品の中からすくい上げられた、作者の思念を具現化した存在ともいえる自分たち『文豪』にとっての、それは死と同義だった。同一人物をふたたび転生させることは不可能ではないが、それまでに身につけた能力や記憶は引き継がれず、すべて一からやり直しになってしまう。戦い続けた経験も、他の者たちと結び深めた絆も、全部。
 光の中で川端の肉体が、まとった衣服が、炎にかざした紙きれのようにほつれていく。
 「川端さん!」
 それ以上見ていられなかった。
 懐を探って、首から下げていた小さな袋を引きずり出す。それを川端の、撃ち抜かれた左胸に押しつける。手のひらの下で袋の中身が割れると同時に、淡い紫色を帯びた光が指の間からほとばしり、ほつれて虚空に消えようとする川端のかけらをも包み込む。
 万が一の時のために持たされていた賢者ノ石、それが必要になるときなど永遠に来なければいいと思っていた。戦いで命を危うくするくらいなら、まだ引き返せるうちに一度退いて態勢を整えるほうがずっといい。とはいえ、今回は完全な不意打ちが招いた結果だった。そこまで反応しきれなかったと悔やんでいてもきりがない。
 足元の帰還の陣から噴き出す光の中で、解けかけていた川端の指先が形を取り戻していく。長身に見合った大きな手のひらと、節の目立つ長い指は秋声にとって甘い記憶を呼びさますものだったが、今は感傷にひたっている場合ではなかった。
 見知った者の命が失われるのを見せつけられるなんて、もう二度とあってほしくない。
 袋越しに手のひらに刺さる石のかけらが崩れていく。触れた者に命を分け与える役目を果たした賢者ノ石は、砂に還るのだという。
 ごうごうと嵐のような唸りが耳を打つ。文学作品の世界から現実へと、魂が引き戻されていく過程の音だ。汽車がトンネルの中を疾駆する感覚に近いかもしれない。
 その向こうに愛すべき日常が待ち受けていることを、そのときの秋声は信じて疑わなかった。

   ***

 地に足がついた感覚にゆっくりと瞼を開く。
 五年もの間、ほぼ毎日お目にかかってきた潜書室だ。目の前の書見台に載せられた本のページは残りわずかのところまでめくり進められたまま、改変されて意味の通らなくなった文章をさらけ出している。黴びた洋墨の臭いを嗅ぎとって眉をひそめながら目を上げれば、正面に特務司書の執務机と、隣にひと回り小さい助手用の机が鎮座している。
 こちらの視線に気がついたのか、机の上のモニタから顔を上げた司書が立ち上がった。足元の陣から放たれる光は徐々に減少し、その表情が明らかになっていく。眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれ、
 「――……お疲れ様でした」
 しばらくの後眉根を寄せ、瞼を伏せてそう告げた声は、余分なものをせき止めてようやく絞り出したように細かった。その頃には帰還陣の光もすっかり収まって、司書の背後に控えていた泉鏡花の表情もはっきりとうかがえた。司書と同じように、色づいた部分が見えなくなるくらいきつく下唇を噛み締めている。そのまなざしは秋声を飛び越え、その背後へと向けられていた。
 いつもなら助手とふたりでてきぱきと怪我人を補修室へ送り込み、会派筆頭に報告書の提出を求める司書だが、今日ばかりは背負う空気がやたらと重い。落とした肩が小刻みに震えている。
 「どうかしたの、」
 たまらずかけた声が引き金になったのか、司書の下瞼から一粒の雫が転がり落ちた。ちょうど雨の降りはじめのように、その後を次々と続いた涙が、頬の上に川を成していく。
 「……川端先生……!」
 ひと声洩らして彼女は決壊した。眼鏡がずれるのも構わず、両手で顔を覆ってむせび泣く。すかさず寄り添った鏡花がその肩を抱く。秋声さん、と呼ばれた声に振り返ると、傷を負ったふたりの文士が揃って呆然と立ちつくしていた。
 「賢者ノ石、使ったよな……?」
 力を失った石が崩れる、ほろほろとした感触はまだ手のひらに残っている。
 崩壊しかけていた彼の肉体が元の形へ巻き戻っていくのも、この目で確かに見届けた。
 四人揃って戻ってこられた、次の潜書に備えてしっかり対策を練ろう。それで事が済むと思っていたのに。
 「そんな……」
 がくん、と視界が下がり、遅れて両膝を痛みが襲う。司書の嗚咽がひときわ大きく、そう広くない潜書室に響いた。
 これまで、この図書館で絶筆した(死んだ)文豪は存在しない。そうならないように、このまだ年端もいかない司書は慎重に潜書業務にあたっていたからだ。どんなに戦い慣れた会派であっても、必ず会派筆頭には賢者ノ石が渡され、喪失状態の者が出た時点で強制的に帰還させられてきた。今回も、その途中だった。
 絶筆した文豪の魂は、本の世界に再び拡散するのだという。有魂書に潜書したり、作品を浄化したりすることで再転生させることは可能だが、絶筆する前の記憶は引き継がれることはない。
 すべて忘れてしまうのだ。この図書館で巡り合った誰かに想いをつのらせ、恋仲となったことも、全部。
 鏡花は愛用のハンカチを惜しげもなく司書に差し出し、負傷したふたりも自身の補修を忘れて、そんな鏡花たちをただ見守っていた。まだ幼いうちにアルケミストの力を見出された彼女は、文士たちにとっても娘や孫のような存在だった。
 「私がいけなかったんです、もっと早く、皆さんを呼び戻せていれば……賢者ノ石だって、ひょっとしたら失敗作だったのかもしれない……!」
 己を責めながら泣きじゃくる司書を、鏡花は着物が濡れるのも構わず抱きしめ、しきりに背を撫でてやる。背後でひとつ、鼻をすする音がする。
 秋声は立ち上がって司書たちに駆け寄ることも、会派の残りふたりをかえりみることもできずにいた。髪の一筋の先端まで、水を吸った綿をぎっちりと詰め込まれたようだ。突きつけられた重い現実が、遠い別世界で起こったことくらいにしか感じられない。それなのに鼻も喉も、うまく空気を取り込んでくれない。
 恋仲である相手が、この図書館で初めての犠牲者となった。たったひとりぶんの質量の喪失が、大きな虚として少しずつ身にのしかかるのは、一度目の生において娘を病に取られたとき以来だ。
 ずっと握りしめたままの手を開く。賢者ノ石を納めていた小さな巾着はくしゃくしゃになって、残った枠組だけが手のひらに圧痕を刻んでいた。それだって、数時間たてば消え失せてしまうだろう。
 (川端さんが、もうどこにもいないなんて)
 このあと皆と別れてひとりになったら、自分も悲しみにかられて泣き崩れなどするのだろうか。今はただ、何もかもが一枚膜を隔てた向こう側にあるようで、どうにも現実が身に沿ってこない。心を守るためにそうなるのだと、遅れて転生した眼鏡の精神科医なら分析するだろう。
 頭がくらくらする。いいだけ回されて倒れる寸前の独楽のようだ。感情を鈍らせてもまだ足りなくて、意識そのものをシャットダウンするしかないほど、衝撃が大きかったのだろう。活動写真で時折見かけた、卒倒する貴婦人の姿が、袴の裾を翻して崩れ落ちる自分自身に重なる。
 そんなふうに、見たくないものから逃げ出すことができればどんなに楽か――見かねた誰かに、ちょっと引っ込んでいろ、と押し除けられるままに、己の制御を手放せたら。

 「――あの、皆さん」
 己の体温で融け消えてしまいそうな細い声を、秋声は確かに聞いた。
 「私は、ここにおります」
 最初に反応したのは特務司書の少女だった。鏡花に渡されたハンカチで目元を拭い、眼鏡をかけ直してまじまじと秋声の顔を見つめる。傍らの鏡花とふたり揃って、大きな瞳をこぼれそうなほど見開く。
 「徳田先生?」
 「秋声さん?」
 どうやら秋声の望みは、現実逃避はかなわなかったようだ。睫毛の根元を濡らしたままの司書と、それから背後からも、共に戦ったふたりぶんの視線が突き刺さる。
 都合四人分のまなざしが、秋声の全身を貫いてその場に縫い留める。なぜ自分が注目を集めているのかわからないまま立ちつくしていると、
 「秋声、あなた、何のつもりですか!」
 みるみるうちに眉を険しく吊り上げた鏡花が司書の傍らを離れ、執務机を飛び越えんばかりの勢いで詰め寄る。
 「こんなときに川端さんの真似など……いくらなんでも、不謹慎にもほどがあります!」
 不謹慎って言われても、と反論しようにも、実際に口をついて出るのは秋声の意思とはかけ離れた言葉と声音ばかりだった。
 「いいえ、冗談などでは――ないのですが」
 「秋声! いい加減になさい!」
 今度ははっきりと理解した。
 ほかでもない秋声の口から、川端の口調と声音をほぼ完璧に再現した声が、秋声自身の意思を無視して発せられていた。自分自身の声を出して弁解することもできないまま、真っ白い綿手袋の手が襟元をつかんで捻り上げる。もう片方の手が固く握り込まれ、大きく後ろへ振りかぶって、
 「待ってください!」
 胸元の拘束がふいに解かれた。
 秋声の肩ほどしか背丈のない司書が割って入り、鏡花の拳に自分の手を重ねて懸命に退かせていた。
 「司書さん、」
 「収めてください、泉先生」
 声を震わせながらも彼女は鏡花の手を下ろさせ、鏡花がそれに従ったのを確かめると、今度は秋声を振り返り、眼鏡を外してまっすぐに見つめてきた。
 眼は心の窓、そんな言葉を体現したような瞳だ。アルケミストとしての力の一端を示す彼女の瞳は、蜻蛉の眼のように大きなレンズの眼鏡で常に守られていた。それがこうして晒されているということは、何か余程の事態が起こっているのに違いない。それこそ、この図書館初めての絶筆者発生に匹敵するような――

 「そこに、いらっしゃるのですか? 川端先生」

 そこに姿のないはずの人物の名を、司書の声が呼ぶ。
 あいかわらず喉の自由がない秋声だったが、胸の片隅でほっと溜め息をつく、自分でない何かの気配を感じていた。

本作品は2023/10/28開催の文アルWebオンリー『言葉紡ギテ縁ト成ス参』にて、個人誌として頒布予定です。
ほそぼそと書いていたのですが、あまりに進みが悪いので退路を断つためにWeb上でも順次公開していきます。
※本にするときに加筆修正をいたします
(あと復活するとはいえ絶筆ネタを含むので、内容的に人を選ぶかと思って…)
しばらくお付き合いいただければ幸いです。
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