しあわせは氷点下

 この新しい身体を得てもう五年にもなるのに、暦に不似合いなこの暑さにはいまだに慣れない。覚えている限りの記憶をたどるなら、今時分はまだ裏のついた着物を着ていたはずだ。
 駅前の広場に建てられた掲示板は電気仕掛けで、その日の気温や湿度、果ては空気の汚れ度合いまでわかるようになっている。気温の表示で目を疑いたくなる数字を読み取ってしまって、秋声は思わず単衣の襟元をあおぎながらため息をついた。単衣の下には襦袢の代わりに汗取りのシャツを着ている。いくらなんでも、素肌に着物をまとうずぶとさはそのときの秋声にはなかった。
 「なんです、そんなに大きなため息なんてついて」
 即座に見とがめ飛んでくる小言、こちらにはもうすっかり慣れていた。再会したばかりのころはいちいち言い返して、相手の沸点を軽々と越えさせるなどしょっちゅうだったが、今は穏当に受け流すことができている。
 乱れた襟元を直して、掲示板を指し示した。
 「あんなの見ちゃったら、ため息の一つもつきたくなるよ。まだ梅雨入りもしていないのにさ」
 「それはそうですね。……まったく、同じ国とは思えません」
 衣服はもちろん、髪のひとすじも乱れていない彼――泉鏡花は短く軽い吐息をひとつだけこぼして、すがめた目で掲示板の数字を見やる。
 「ひとまず店に入ろう。建物の中なら、空調が効いているはずだから」
 他の者なら、喫茶室で冷たいものでも飲もうと誘うところだが、鏡花相手では通用しない。甘い菓子や茶を介してゆっくり話せる機会があれば、もっと早くこの穏やかな距離感を得られたのかもしれないけれど、それは今更、というか、突き詰めても仕方のないことだった。
 (冬場ならまだ、余地はあったんだろうけど)
 こうして買い出しに同道できているだけでも十分だ。
 談話室に備えてあるお茶請けの菓子や飲み物が、残り少なくなっているのを見つけてしまったのが発端だった。気づいたものが買い足しておく、というのが図書館内での不文律となっていたが、どうしてか秋声ばかりがストックの切れるタイミングに居合わせることが多かったのだ。
 外に出るのが億劫な時もあるけれど、買ったものの代金はどのみち立て替えてもらえるし、と好きなものを買っている。気に食わなければ、めいめいで好みのものを持ち寄ればいいのだ。潜書当番もないし気晴らしにちょうどいい、と紙入れ片手にエントランスに出て行ったら、どことなくそわそわしている鏡花と行き会ったのだった。
 『紅葉先生に添削をしていただいていたのですが、お部屋のお菓子が切れてしまっていて』
 作品の添削に必ずしも菓子が必要なのかとか、いい歳をして子供よろしく部屋に菓子をため込んでいるのかとか、言いたいことは山ほどあったが、どれも鏡花の沸点を大幅に下げることになりそうなので、飲み込んでともに駅前まで出ることにした。生前から馴染みのある百貨店が、中の店子こそ代替わりがあるものの、建物もそのまま今も変わらず営業しており、図書館で暮らす文士たちは何かとそこを覗くのが常となっていた。
 快適な温度に整えられた百貨店で、秋声と鏡花はそれぞれの買い物を済ませていった。帝都ならではの土産物を求める客でごった返す地下の銘店街や、街中よりも少しばかり高級な品を扱う菓子屋の間を、蜜を求める蝶のように歩き回る。小一時間ほどして両手を紙袋でふさぐ頃には、ふたりの首筋をしっとりと汗が湿していた。
 冷たいものが食べたい。
 そんな秋声の耐え難い欲求を、天が聞き届けたかのようだった。
 建物に入ったときとはちょうど逆方向、駅に向かって大きく開けた入り口前の広場には、期間限定をうたう出店がいくつか並んでいた。
 「国産の原料だけを使った贅沢な……、本日最終日です!」
 売り子のよく通る声が秋声の耳を引きつける。商品名は聞き取れなかったものの、声のした方角を振り返ってすぐに何の店か察することができた。
 商品ケースは近くまで寄らないと中が見えないものだったが。それを補うように両脇に幟が立っている。アイスクリーム、と大きく描かれた藍色の地に、白く染め抜かれた雪の結晶の図案を目にして、秋声の脳裏をひとりの男の姿が行き過ぎた。
 (……好きかなあ)
 夏場でも襟巻をふわりとまとった彼、川端康成とは、いわゆる好い仲だ。秋声がこの図書館に呼ばれるはるか以前、一度目の生を送る最中から、秋声のことを慕ってくれていたという。転生を経てひとつ屋根の下で寝起きするようになったためか、あれよあれよという間に距離が縮まって今に至っている。
 (冷たいものは苦手で、なんて言われたらどうしよう)
 夏場に一緒に食べたものを思い起こせば、水羊羹やところてんといったものばかりで、アイスクリームといえば辛うじてあんみつの上に添えられていたっけ、程度の認識だった。新しもの好きの節があった秋声としては、往事より手軽に買えるようになったそれに興味をひかれてやまなかったのだが、なにぶんにも相手のある話だ。勝手知ったる友人たちにふるまうのともわけが違う。
 「どうしました、秋声……あっ」
 背後からかけられた鏡花の声が、秋声の視線の先に気づいたらしかった。あいかわらずの暑さにもかかわらず、その声にすっと体温が下がる。
 彼の小言には慣れたつもりでいたが、今回は見とれていたものがものだっただけに、振り返るのが怖くさえあった。せっかく訪れていた平穏を、自分の欲で壊したくはない。
 「なんでもないよ。帰ろうか」
 二度手間にはなってしまうが、一度戻って荷物を置いてからひとりで出直そう。
 そう心に決め、踵を返しかけた秋声の背中に、綿手袋越しにあたたかな体温が添えられた。
 「な、何、鏡花」
 温もりの優しさとは裏腹に、ぐいぐいと押される。たたらを踏む足が出店の方へ数歩、近づく。
 「水臭い。気になるのなら、遠慮せず素直にそう言ったらどうです」
 「別に遠慮なんて……」
 「していたでしょう。兄弟子に隠し事なんて百年早いですよ」
 それって兄弟子がどうとか関係あるのかな、と訝しむうちに、秋声は鏡花と並んで冷凍ケースの前に立っていた。ご試食いかがですか、とたちまち寄ってくる売り子を軽くいなして、
 「確かに、僕は火の通っていないものは口にはしませんが」
 ひそめた声で鏡花がささやく。ひとつだけ受け取っていた樹脂製のスプーンを秋声に差し出す。
 「バニラ味、だそうですよ。――先生のお気に召すかもしれませんから、あなたが見立ててくれないと困ります」
 渡されたスプーンの上のアイスクリームは、黄みを帯びた白の中にぷつぷつと、細かな黒い粒が見えた。口に含むと、しっかりと濃いミルク味の脇を鮮やかな香りが駆け抜けていく。売り文句に違わず、質の良い材料を使っているらしかった。
 たしかに、これを買わずに帰ったことが師匠に知れた日には、盛大に文句を言われそうだ。そしてその傍らには、この兄弟子もちゃっかり控えているのだろう。
 「素直じゃないのはどっちだろうね……」
 「何か言いました?」
 「別に。責任重大だなって言っただけだよ」
 ケースの中身とサンプル写真を見比べながら、ひとつ一つ選んでいく。師匠には好物のミルクティー味、自分用には試食して気に入ったバニラ味、それともうひとつ、
 「ハニーミルクティーか……昔じゃ思いつかないくらい、いろんな味が増えたんだな」
 ミルクティー味のアイスクリーム、飴のように加工された蜂蜜のかけらが入っている商品写真に心をひかれた。ひとしずく暖かみの加わった淡い色合いが、雪解けの合間に覗く芽吹きのような笑みを連想させる。
 帰り着くまで溶けてしまわないように、保冷剤をつけてもらった小さな袋を提げて、秋声たちは帝國図書館行きのバスに乗り込んだ。鏡花の持っていた紙袋をひとつ引き取って手すりに摑まると、白い手袋に包まれた指先が秋声の腕にかかる。車体が揺れるたびに、着物の袖越しに鏡花の指が腕に食い込む。
 「鏡花はさ、」
 信号待ちでバスが停まった拍子に、それとなく尋ねてみた。
 「もし君のことを好きな人が、君の苦手なものを贈ってきたらどう思う?」
 「僕を好いてくれている人――」
 ふむ、と唸りながら鏡花は首をかしげる。頬にかかる長い髪がさらりと揺れて、すぐ目の前の席に座っていた老婦人が目を見張った。
 「今思い当たる人たちなら、僕の苦手なものは大概察してくださっているかと」
 「例えばの話だよ。もしそうなったとして、その人のこと、嫌いになるかな」
 彼の性格からして、そこまでには至らないとわかってはいた。何もかもすべて、片っ端から肯定する、そんな無条件な敬愛の仕方もしないだろうが、逆にアイスクリームひとつでいきなり絶縁を切り出すような狭量さの持ち主でもないはずだ。断言できないのは、五年たっても高まりきらない秋声の自己肯定感がゆえだった。
 「……いいえ、」
 鏡花の返事は車内アナウンスにかき消されてしまったが、左右に振れた髪の動きで読み取ることができた。停車ボタンを手袋の指が押す。
 ほどなくして、図書館の正門前でバスは止まった。秋声を急き立ててバスを降り、手提げの紙袋を取り返して鏡花は振り返る。
 「どんなものでも、僕のことを考えて選んでくださったのでしょうから。その気持ちばかりは、ありがたく受け取りたいと思います」
 折りしも前庭を吹き渡った風が、蜂蜜色をした鏡花の髪をなびかせる。どこからか引き連れられた花びらの合間で微笑むさまは、さながら天仙の類だ。思わず見とれてその場に立ちつくしていると、柔和だった眉がきりりと吊り上がった。
 「この期に及んで迷うのは、お相手に対しても失礼ですよ。喜んでもらえると少しでも思ったから、選んだのでしょう」
 胸を張りなさい、と睨みつけるようなまなざしは、酔い覚ましに口にする氷水のように、秋声の背中に一本の強い針を通した。兄弟子だからと何かと説教がましいのは閉口ものだったが、それも彼なりに秋声を気にかけているあらわれだと納得できたのも、つい最近のことだ。
 「そう……だね。ありがとう、鏡花」
 「わかってくれればいいんです」
 たちまち得意満面といった顔になるのも、今ではいっそ微笑ましいくらいだった。

 ***

 鏡花と別れ、アイスクリームを一時冷やさせてもらおうと、秋声は文士たち専用のキッチンを目指していた。料理を趣味とする文士が増えたために、一般職員に気を遣うことなく利用してもらおうと、こちらも最近になって新たに整えられたのだ。冷蔵庫も、食材のほかに私的に買ってきたものを入れておけるようにと、厨房にあるのと同じ大型のものが設置されている。記名をせずにしまっておいた菓子や軽食を誰かが食べてしまって、朝食の席で諍いが起こるのもよくある光景だった。諍いといっても、今度何か代わりのものを買ってよこすことで収まる程度の、極めて軽いものだ。
 夕飯の後くらいに呼び出して、部屋で一緒に味わうことにしようか。ひょっとしたらそのままともに夜を明かすことになるかもしれない。明日の潜書予定はどうなっていただろう、少しでもゆっくり過ごせたらいい。
 そんなことを思いながらキッチンに入ろうとしたところで、目の前に黒い壁が立ちはだかった。ちょうど秋声の喉元に当たる位置で、見覚えのある小さな手提げ袋を抱えている。真っ白い艶消しの地に浮き上がる花の意匠から、かすかな冷気が立ちのぼって秋声の頬を撫でた。
 「失礼、……徳田さん?」
 小さく息をのんだ声に、そのまま視線を上向ける。
 長い前髪越しでも、そのひとが大きく目を見開いているのがわかった。
 「川端さん――その、袋、」
 濃色の夏着物に身を包んだ川端は、秋声が指さした先に目を落として柔らかく微笑む。
 「駅前の、百貨店の……」
 「ええ。午前中に、利一と出てきまして」
 そこで川端はふと言葉を切って、さらに眉を下げた。ミルクティーに落とし込んだ蜂蜜の味が、ぐっと近くなる。
 「徳田さんは、苺はお好きでしょうか」
 「う、うん。べつだん嫌いではないけど……」
 「では、こちらは」
 川端は袋の紐を手首にかけ、もう片方の手で中から小さな紙製のカップを取り出した。肉厚の手で丁重に捧げ持ったカップの蓋から、淡い紅色が透けている。ところどころ色濃い粒が見えるのは、潰れきらない果肉が混じっているからだろう。
 心配する必要など、この時点でとっくのとうになくなっていた。今秋声の胸を内側から激しく蹴飛ばすのは、想定以上の事態に直面したがゆえの高揚感だ。右手に提げた白い手提げ袋が、途端に重みを増すようだった。
 「うん、――好き、だよ」
 たった二音なのに、これほど口にするのに勇気のいる言葉はない。それが言霊というものなのだと、文字通り秋声の背中を押してくれた彼ならしたり顔で答えることだろう。
 それよりも、こんな戸口で立ち話など余計に落ち着かない。川端を自室に誘う間にも、頬を焦がすようなこの熱で、せっかくのアイスクリームが溶けてしまうかもしれない。
 川端の肩をそっと押しながら、秋声は今度こそキッチンに足を踏み入れる。中央に置かれたテーブルに、彼に見えるようにして手提げ袋の中身を取り出した。同じ形の白いカップが三つ並ぶのを、川端と肩を並べて見下ろす。鼓動は、まだせわしないままだ。
 「僕のは、バニラと蜂蜜ミルクティーなんだけど……川端さんは、どっちが好き?」

 どれだけ時間が経ったことか、どちらかひとつなど選べません、と細い声で川端が降参を告げる頃には、三つのアイスクリームも保冷剤のパックも、すっかり柔らかくなってしまっていた。

2022年5月のWebオンリー(ことつむ1)で展示したもの。
何か展示ものを…と考えて、前回のイベントで無料配布した『~4/3πr³』のことを思い出し、いっそこの路線でシリーズものにしちゃえ! ってことで書きました。
テーマはおやつ、ゲストで図書館の誰か、というスタイルがここで固まった感じです。
なんでも火を通さないと気が済まない鏡花さん的にはアイスはNGなんだろうけど、紅葉先生に所望されたら逆らえないだろうし、弟弟子とのコミュニケーションも兼ねて、こんなふうに味見してもらう場面があったらいいなと思います。劇4くらいの距離感を意識しました。
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