しあわせは4/3πr³

 たまりにたまった仕事がようやくひと段落して、ふらふらと廊下に出た秋声の鼻先をくすぐったのは、バターの融けた甘い香りだった。
 昨今体調を崩しがちな司書を手伝って、溜まっていた提出書類を朝から休みなくさばいていたのだ。昼食だって、司書ひとりを食堂に追いやって、自分は握り飯をかじりながら報告書の草案を練っていた。この図書館に呼ばれたばかりの頃をほんの少し、思い起こしこそしたが、米と海苔と微かな塩味の協奏を、噛みしめる余裕はなかった。
 一度目の生よりも科学技術はめざましく発達して、紙を使わずして瞬時に情報のやりとりができるようになったというのに、こういった堅い書類は手書きでないと受理されないらしい。手間もかかるし不合理が過ぎる、と、乾いた米粒でかさつく指先を擦り合わせながら秋声はため息をつく。
 五年が経った。若い身体に魂を押し込められ、わけがわからないまま妙な化け物と戦わされ――文学を消滅の危機から守ること、それがいつの間にか、自分にとっての日常となっていた。つい他人の世話を焼いてしまいがちで、それがもとで厄介事に巻き込まれたことも両手足の指では足りないほどだが、振り返ってみればそれをさほど嫌だとは感じていない自分がいる。むしろ『よくあることだから仕方ない』と、半ば諦めながら甘受しているふしさえある。ときどき放り込まれる非日常も、いつの間にか日常を構成する要素のひとつになっていた。スープに振り入れられた胡椒粒は、選り分けることが難しい。
 そんな喩えを思いついた秋声の耳を、
 「わあっ!」
 子供の高い声が射抜いた。反射的にびくりと肩が跳ねる。
 振り返ると耳つき帽子をかぶった少年が、してやったりと言わんばかりの笑顔で秋声を見上げていた。
 「南吉くん……もう、心臓が縮むかと思ったよ」
 ごめんなさあい、と詫びる声にはしかし、恐縮した様子は微塵もうかがえない。この程度のことは南吉にとってはあくまで、スキンシップの一環にすぎなかった。
 そんな彼の両手に捧げ持った深皿の中で、楊枝の刺さった丸いものがころころと踊っていた。彼が背負って連れ歩く友達の体色によく似た、狐色だ。皿からこぼれ落ちないようにラップフィルムでふわりと覆われていたが、甘みを伴った香りはその程度の覆いもものともせずに少年を取り巻いていた。出来たてなのか、フィルムの内側がうっすらと曇っている。
 「それは?」
 「ベビーカステラだよ! 賢ちゃんたちとみんなで食べるの」
 名前を聞いても、あまりぴんとこなかった。カステラならば、まだ馴染みがある。蜂蜜がしみ込んでしっとりした生地がもたらす重い甘みには、コーヒーの苦味がよく似合う。百歩譲ってミルクを加えたとしても、砂糖はおそらく不要だろう。しかし皿の中でころころと転がる、粉糖をまとったそれは、秋声の知る四角い焼き菓子とはどうにも結びつかなかった。
 「川端さんが作ってくれたんだよ」
 しかし、次に南吉の綴った名前は釣り針のように秋声の気を引いた。かねてから自分に敬愛の念を注いでくれて、しかし近頃は多忙のゆえに久しく顔を合わせることのなかった、目下恋仲の間柄にある男だ。雪の下から覗く芽吹きのような微笑みが、脳裏に蘇る。
 この図書館で暮らす文豪たちの中には、転生をきっかけとして新しい趣味に目覚める者もいた。もともと料理上手だった者に触発されてか、厨房に立ち始めた者も少なくなく、しかも誰も彼もなかなかに見事な腕前であったりするのだ。物書きならではの鋭い感性や強いこだわりが、良い方向に働いているのかもしれない。いっそ物書きをやめても、そちらの道で食べていけるのではと思わされるほどだ。そして川端も、例に洩れずその一人だったらしい。
 なんでもできる恋人というのは、確かにちょっと誇らしいものかもしれないけれど、ただでさえ文の道で高い評価を得た川端までもがそうなってしまうと、
 (なんだか、どんどん僕の立つ瀬がなくなっていきそうだなあ……鏡花だって焼き菓子を作ってたっていうのに)
 師の求めで苺大福を作ろうとして失敗したのを思い出して、深いため息が洩れた。自分を卑下する物言いは誰も幸せにしないと頭でわかっていても、切々と身にしみて感じるいたたまれなさはそうそう自分のうちに留めておけない。実際、余り物ですが、と兄弟子がよこしてきたクッキーは、少し焦げ色が目立つものの、申し分ない味だった。
 だが少年の無邪気さは、秋声のため息をまた別の意味にとらえたらしかった。器を覆うラップフィルムの端をめくり、秋声の目の前に差し出す。
 「はい、おすそわけ!」
 「……いいのかい、」
 「ずっとお仕事してたんでしょう、秋声さん」
 あるいは、さりげなく大人の洞察力を働かせたのかもしれない。今は子供の姿をしていても、彼も名だたる作品を後世に残した立派な『文豪』なのだ。
 そこまでされて突っぱねるのも野暮だと、秋声は楊枝の刺さっていないものをひとつ摘み上げた。指先に伝わる熱が、早く口へ運んでほしいと急かしてくる。ひと口で食べきってしまうのももったいなくて、はふ、と息を吐きかけて冷ましながらまずは半分かじりつく。
 中心部までしっかり火の通った生地が、優しい甘みを振りまきながら口の中でふわりと溶けていった。まだ山ほど残っている書類をさばかねばならない面倒さも、くるりと丸め込んで胃の底に飛び込んでいくようだ。
 「……うん、おいしい。ありがとう、南吉くん」
 美味しいものはしかめ面のままでは食べられない。自分の声も弾んでいるのがわかった。見上げてくる南吉の笑みも一層深まる。
 「川端さんにもお礼を言わないとね」
 何の気なしにそうつぶやいたのが、呼び水だったのかもしれない。
 陽の光に透けて銀色に輝く髪が、穏やかでありながら熱をはらんだ眼差しが、たちまち無性に恋しくなった。ちょっと忙しくなるかも、と告げてからというもの、彼が秋声の部屋を訪れることはなく、すれ違い際にちらりと目配せし合うのが唯一の接触となってしまった。川端の性格からして、秋声の負担になってはいけないと気を遣ってそうしているのだろう。落ち着いたたたずまいからは想像もつかないが、彼はその肚のうちではずっと、大切な相手への想いを熾火のように燃やし続けている。その範疇に自分が含まれていることは、自惚れでも何でもない。
 (昔はともかく、今は恋人同士なわけだし)
 南吉が歩いてきた廊下の端へ目を向ける。いつも三食お世話になっている食堂とは正反対の方角だ。つい先頃、一部の文豪たちの求めに応じて、一般の職員が管理する厨房とは別に、いつでも使える彼ら専用のキッチンが増設されたのだ。
 「川端さん、まだ向こうのお台所にいたよ」
 銀髪の少年はにこにこと眩しい笑みを溢れさせる。川端と深い仲にあることは、別段おおっぴらに触れ回ったりなどはしていなかったが、びっくりするくらい聡い子だから、ひょっとしたら何か察しているのかもしれない。
 だが、わざわざ追及するのも無粋というものだ。川端に会えるのならば、ゆっくり話ができるのならば、一も二もなくその機に乗じたい。そんな想いが今、秋声の背中を後押しした。
 南吉と別れて、早足で廊下を進む。真っ白い顔をしていた司書には休憩するよう強く勧めておいたから、しばらく執務室には戻ってこないだろう。たまっている仕事のことは、今はよそに置いておく。人でも機械でも、エネルギーなしに動くものなんて存在しないのだ。
 廊下の角を曲がると、甘く香ばしい匂いがいっそう濃くなった。階段を降りれば、目指すキッチンはすぐそこだ。一段下るたびごとに心臓が弾むように脈を打つ。
 思えば、恋仲になっても秋声の側から行動を起こすことはほとんどなかった。そうする前に川端が訪ねてきてくれてしまうのも原因のひとつだったが、川端ほどの人物に敬意と好意を向けられていることを、しばらくは素直に受け止められずにいた。気持ちにはっきりと答えないなんて、思えばずいぶんと失礼なふるまいをしてきたものだ。
 それでも川端は終始変わらず、飽くことなく、想いを伝え続けてくれた。その積み重ねの果てに、今の自分達がいる。
 (少しは僕も、返さないと)
 ひっそり胸に決めながら最後の一段を踏み込んだ足の裏が、ずるりと滑った。思わずわっと声を上げたのと同時にがくんと視界がぶれ、踏み止まった衝撃が腰に響く。手すりにすがりついて、みっともなく転ぶことは避けられたけれど、
 「……びっくりした……」
 激しい動悸がいっこうにおさまらない。羽織の裾を尻に敷いたまま、階段に座り込んで傍らの壁に頭をもたれさせる。腰が、というか魂が半分抜けてしまったようで、立ち上がる気力すら沸いてこない。こんなところに鏡花が通りかかろうものなら、こちらの心配よりも先に羽織の扱いにまた苦言を呈されそうだ。
 そうなったらいやだなあと思うのに、身体が動かない。病み上がりなのに働き詰めの司書のことばかり気にかけていたけれど、実は秋声自身も相当疲れていたのかもしれない。
 「――徳田さん、」
 かけられた声にも、すぐに反応できなかった。血相を変えてキッチンから飛び出してきたそのひとを、呆然と見つめ返すばかりだった。
 「だ、大丈夫ですか? お怪我は」
 「……ぁ」
 淡い色の髪も、丸く見開かれた瞳も、どれもこれもが眩しくてたまらない。身軽な洋装にエプロンを合わせた珍しいいでたちのせいだけではない。すらりと背の高い、しっかりした身体つきの彼が、ためらいもなく膝をついて視線を合わせ、こちらを覗き込んでくるのに、じりじりと頬が熱くなるのをかろうじて感じ取る。
 呆けたまま答えない秋声を訝しんだらしい川端が、ついと手を伸ばしてきた。
 「徳田さん?」
 温度の違う指先が頬に触れる。息をのんだ拍子に、ひゃっ、と悲鳴のような声が洩れた。
 「……立てますか?」
 「え、っと、ああ、うん」
 差し出された手にすがってゆっくり立ち上がる。ニットを肘まで捲り上げた腕は、小柄だが華奢ではない秋声の体重を苦もなく支えていた。いつもは襟巻で隠れている喉元が、今は無防備に目の前にさらされている。濃い色の着物にゆったりと包まれている胸板も、窮屈さを感じさせない程度に服地を押し上げていた。
 こんなに距離が近いのも、もう何日ぶりだろう。階段一段分の高みから、いつもと少し違う恋人の姿をじっくりと眺めてしまう。
 「お仕事は、もう良いのですか」
 「まだ全部は終わってないけど……働き詰めもよくないからね」
 そうですね、と川端は柔らかく微笑んだ。蜂蜜やバターとはまた異なる、ほろ苦さを背後に隠した甘い香りがその指先から立ちのぼる。
 「怠けることが大切、ですね」
 ほころびかけた花の蕾のような男がつぶやいた言葉にうなずこうとして、あれ、と頭の芯のほうで引っかかるものを覚えた。脳内で繰り返した川端の声に、図書館にいる誰とも違う声が重なる。そして、
 「そう、だね。怠けなきゃあ、だめだよね」
 返した言葉は、秋声の――今ここにいる自分の脳が紡ぎ出したものではなく、もっと深いところから湧き出てきたものを汲み上げてきたようだった。間違いなく自分が発した声であり、言葉であるのに、どこかから言葉にならない指令を受けて読まされている、そんな感覚だ。
 やはり相当に疲れているのだ、傍目から見てもわかるくらいに。
 川端も多分に驚いたようだったが、すぐに表情を戻し、今度は先程よりもいっそう深まった笑みを秋声に向けた。満開とまではいかないが、五分咲きくらいにはなるだろうか。
 「お供します。どうぞ、存分に羽を休めてください」
 手を引かれるままに階段を降りる。
 少しだけ顎を上げて視線を合わせる手間が、今はむしろ愛おしかった。

 ***

 文士たちのためのキッチンは温かみのある色のタイルでところどころ装飾を施されていて、まるで絵本にでも出てきそうなたたずまいだった。そんな見た目の可愛らしさに対して、設備のほうは食堂併設の厨房に匹敵するほどで、菓子だけでなく酒の肴から豪勢なフルコースに至るまで、幅広い求めに応じられるよう整えられていた。いつだったか、広い背中を心なし縮こまらせて、釣ってきた魚を捌く師の親友の姿を見かけたのを思い出す。部屋の中央には四人掛けの小さなテーブルセットが備えられ、作ったものをその場で振る舞えるようになっていた。
 そのテーブルの上には今、布巾で埃除けをしたボウルともうひとつ、何やら見慣れない機械が置かれていた。何箇所も窪んだ鉄板がセットされ、伸びたコードが床のコンセントに挿さっている。辺りには先刻嗅ぎ覚えのある、ミルクと蜂蜜の入り混じった香りがかすかに漂っていた。
 「そうだった、ベビーカステラ」
 つぶやいた声に、機械のスイッチを操作していた川端が顔を上げる。いつの間にか長い前髪を上げ、クリップで留めている。
 「お礼しようと思ってたんだ。南吉くんからひとつ分けてもらってね」
 両方ともあらわになった眼差しの強さは、無言で傾げた首の角度で相殺される。今生では秋声よりもいくぶん年嵩らしい肉体を得た川端だが、そうしてみるとずいぶんと幼く見える。そういえば親子ほどの歳の差があったのだと、思い知らされてしまう。
 ありがとう、おいしかったよ。そう告げると、炎の覗き窓のような瞳が細められた。
 「そうでしたか。喜んでいただけたのならば、何よりです」
 ボウルの中には淡い黄色のとろりとした生地が、まだ半分ばかり残っていた。熱の回り出した鉄板が、しみ込んだ油の匂いを放出し始める。
 せっかくだから出来たてを、という川端の申し出を断る理由を、秋声は持ち合わせていなかった。テーブルに肘をつき、重ねた手の甲の上に顎を乗せると、川端が空気を揺らすように笑った。
 「……なんだい」
 「新美さんも、焼きあがるところが見たいと――今の徳田さんと、まったく同じ姿勢をされていたので」
 「小さい子と一緒だって言うの?」
 「いえ、そういうつもりでは……」
 「ごめん。冗談だよ」
 べつだん気分を害したわけではなかったが、恐縮したふうに口ごもる川端の姿は悪戯心をひどくくすぐった。口数は少ないし、じっと見つめてくる瞳に気圧されたりもするけれど、根は穏やかで善良な男なのだ。夜の間に音もなく降り積もり、朝日を受けて目映く輝く、誰にも踏まれていない雪のような。足跡を残したい衝動をどうしたってかき立てられるけれど、欲望のままに踏み荒らすのは無粋だ。
 すぐに謝って引き下がった秋声を、睨みの数歩手前の軽い一瞥で許して、川端はボウルの中身をかき混ぜ直すと、鉄板の窪みへ少しずつ注ぎ入れていった。温められ、ぷくぷくと泡を立てながら膨れる生地を見守る川端のまなざしは、幼子に向ける親のそれにも似ているようだ。
 「何かいいお茶請けがないか、と聞かれまして」
 「南吉くんに?」
 「ええ、談話室で童話作家の集まりをするので、そのお供にと」
 どんな姿であれ、この図書館で起居する彼らの本質はいっぱしの物書きだ。ただその作風が幼い子供向けである、それだけの理由で、今生の彼らはその肉体も魂も、読み手に添ったかたちを取っていた。そんな彼らを満足させるおやつはないものかと考えた川端の脳裏をよぎったのが、このキッチンの戸棚にしまった小さなたこ焼き器だったという。
 「祭りの屋台で見かけたのを、思い出しまして」
 焼く手間こそかかるけれど、特に珍しい材料を使うわけでもない、素朴な味のそれなら、彼らのお眼鏡にもかなうことだろう。廊下で鉢合わせた南吉の弾けんばかりの笑顔を、秋声は思い起こした。
 「きっとみんな喜んでると思うよ。南吉くん、すごく嬉しそうだったから」
 「であれば――あ、」
 言い切らないうちに、川端の頬から笑みが消えた。敵の気配を察知したときのように、その眼も険しく細められる。
 「返しますね」
 短く告げると、川端はアイスピックをひと回り小さくしたような器具を取り上げ、鉄板を鋭く見据えた。窪みのひとつに目を留めると、ピックの先端を滑り込ませ、ぐるりと円を描くようにして鉄板から生地を剥がす。そうしてくるんと返した手首と一緒に、こんがり焼けた滑らかな球面が現れた。
 平素はあまりきびきびと動く印象のない彼が、次々と生地を裏返し、丸いカステラを焼き上げていく。ただ見惚れるしかなかった秋声は、己の胸が不思議な高揚感で満ちていくのを感じていた。
 「すごい……」
 鮮やかな手さばきも、ころんと丸く焼き上がっていくカステラも、そのたびに真剣そのものだった川端の瞳がふっと細められるのも、すべてその三文字に集約されてしまう。
 きちんと顔を合わせるのが久しぶりだから、一挙一動が新鮮に映るのかもしれないが、それを差し引いてもこれほどの胸の高鳴りを覚えたことはそうそうなかった。覚えがあるとしたら、彼に想いを告げられた時以来だろうか。
 できあがったカステラを皿にひとつずつ移しながら、こちらを窺い見た川端がまたうっすらと微笑んだ。よほど間の抜けた顔をしていたのだろう、恥ずかしさと同じくらいにむず痒さがつのる。だが頬の皮膚一枚下を襲うぞわぞわした落ち着かなさは、けっして不快なものではなかった。一度目の生を経て、酸いも甘いもひと通り噛み分けたつもりでいたのに、こんなにも心臓が瑞々しく跳ねるのはとても新鮮な気分だ。
 ふたりの間を隔てていたたこ焼き器が脇に避けられ、かわりに湯気と芳ばしい香りを放つベビーカステラの深皿が、秋声の目の前に置かれた。どれも中心の継ぎ目以外は、鉄板の窪みを正確に写しとったような、まったく歪さのない丸みをもっていて、皿がテーブルに着地したわずかな揺れにころころと跳ねる。いつの間に用意したのか、ミルクティーの注がれたマグカップも脇に添えられた。
 「お待たせしました。それでは、いただきましょうか」
 エプロンを外した川端が、小ぶりのフォークを差し出しながら微笑む。
 ころころと皿の中で弾むさまも愛らしいベビーカステラだったが、ひとつだけ難点をあげるとしたら、口の中の水分を根こそぎ吸い取っていくところだった。談話室に集まった子供姿の文士たちを少しだけ気にかけながら、即席で淹れたミルクティーとともに、ふたりの大人は素朴な甘みを少しずつ楽しむ。
 侵蝕者の親玉を封じ込めても、秋声たちの仕事はまだ終わらなかった。文学の世界のあちこちに散らばった残党の排除と、これまでの間に失われてしまった作品の復元がこのところの急務であり、そのためには今いる文士たちの存在をより確固たるものにし、司書の力を食い潰すことなくこの世に根づかせることが必要とされていた。
 「最初にこの図書館に呼ばれたときは、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったよね」
 ミルクティーをすすりながらつぶやくと、向かい側で川端が表情を崩してうなずいた。
 「一度死んで、もう『徳田秋声』としての意識もそこで途切れたと思っていたのに、気がついたらこうだもの。知り合いも増えたし、ほぼ毎日何かしら面倒ごとに巻き込まれているし」
 「もう二度と会えないと思った方たちが、今では常に周りに居る……夢まぼろしかと思ったものです」
 「そうだね、――怖くもなるよね」
 知らない間に彼岸を渡られてしまって、後悔ばかりが残った相手とも再会でき、わだかまりを解くことができた。都合のいい非日常だと自身を疑ったこともあったけれど、これだけの月日を重ねた今、起こっていることをありのまま受け止めるよりないと感じるようになっていた。それが本来の『徳田秋聲』としてのあり方でもあったからだ。
 いつかは終わりがくるのかもしれない。でも今は、こんな日々が少しでも長く続けばいいと思う。
 「こう言い表すのは、いささか不謹慎かもしれませんが……私らがこうして喚び集められたのも、文学を護るだけでなく、心残りをきちんと清算するためでもあったのかもしれませんね」
 「そうだね。僕たちの未練も、ひょっとしたら侵蝕者の餌になったかもしれない」
 抱いた想いがどんな方向性をもつものであれ、執着は硝子瓶に貼り付いたレッテルに似ている。綺麗に剥がさなければ、見た目を損ねてしまう。
 いつになればすべての文学作品を浄化し終え、それらが生み出されたときの本来の姿を取り戻せるのかは、秋声たちはもちろん特務司書たちにもまだわからない。けれど、
 「いずれは終わりがくるんだとしても、今は毎日が充実しているし、結果としてはこうして転生してきてよかったって思うんだ」
 「……そう、ですね」
 川端の答えに少し間が空いた理由に行きついて、言葉の選び方を誤ったかと背筋が冷えるのを感じた。カップの水面に落としていたまなざしを恐る恐る上向かせる。
 川端もまた目を伏せて、手の中のカップを弄びながら見つめていたが、その両の口端が秋声の目の前でくいと引き上がった。
 「戸惑いがあったのは事実です。ですが、」
 はっきりと微笑む。それまでのどこか儚げな笑みとは違って、一本揺るぎない芯の通った強さを感じさせる表情だった。
 「今はもう、胸の洞は残さず埋まりましたから」
 「そう、……うん、それなら――」
 「徳田さんのおかげです」
 すっかり忘れていたが、川端の長い前髪はいまだクリップで上げられたままで、強い光を抱く瞳が両方ともあらわになっていた。凄みさえあるその整った顔立ちで、ただ笑顔を向けられるだけでも心臓が落ち着きをなくすというのに、今はそれを隠すものがまったくないのだ。
 「……その様子なら、確かに心配はいらなさそうだね」
 むずむずと熱くなる頬に思わず顔をしかめてしまうのをこらえながら、そう返すのがやっとだった。

2022年5月のイベント(超或図書)で無料配布したもの。
ログイン会話や梶井さんのお誕生日回想でたこ焼きを焼いていたところから、だったらベビーカステラもいけるのでは? と思って焼いてもらいました。
頼めばパンケーキとかも焼いてくれるんじゃないかな…お好み焼きの要領で。
中盤、ちょっと脈絡なく入れてしまった怠ける怠けないの話は、川端先生の随筆『徳田秋声「縮図」』を参考にしました(岩波文庫『川端康成随筆集』)
ゲーム内では自分の作品を絶賛してくれた川端さんのことを覚えていない設定になっていますが、「知っているはずなのに思い出せない」って言ってるので、記憶としてはあるんだけどアクセスできない状態なのかな…とか考えてみています。
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