幽世の絆

 「こうしてみると、あなたも随分と大きくなったものですね」
 紅に朱に黄金に染まった木々の葉を錦とたとえ、今の時分を錦秋と呼ぶ。
 竹箒を手にした康成の足元には、そんな錦の欠片が山と積もっていた。
 里山の治める人の居ないことは昔から変わりないが、広々とした境内には塵ひとつなく、枯れていた手水鉢も湧水で満たされていた。埃や朽ち木に埋もれていた神楽殿も、すっかり磨き清められている。
 飴色の毛並みをした、四本の尾を地につかぬよう揺らした狐がとことこと舞台に上がり、辺りを見渡して満足したようにくるりと身を翻す。白と薄紅をあしらった狩衣姿の青年が姿を現した。神楽の舞手さながらに、髪や首元に玉飾りをあしらったさまは清らかな乙女のようだ。
 「――泉さん」
 「もう何年、いや何十年になりますか……本当によかったのですか」
 華やいだ顔立ちを曇らせ、青年――泉鏡花は康成に問いかける。
 「また人の世に生まれ直すこともできたでしょうに。なぜ、この隠り世に留まろうと思ったのです」
 箒を操る手を止め、康成は鏡花を見つめ返した。藤色がかった鏡花の瞳はしばらく康成のまなざしを受け止めていたが、
 「いいえ、あなたを責めているわけではないんです。ただ気になったものですから」
 そんなに見つめられると、穴が開くどころか燃え上がってしまいそうですよ、と柔らかく微笑んでかわした。
 もちろん、そうはならないと双方ともに知っている。化生の者として生きた年月も、蓄えた力も鏡花のほうが格段に長いし、康成の側にも、自分の恩人の兄弟子である鏡花を害する理由などない。ただ康成の癖が出てしまっただけ、その癖が思いもよらない力を伴うことを、ときおり忘れてしまうだけのことだった。
 「……すみません、つい」
 康成が前髪の上から片眼を手で覆うと、鏡花は小さく声をたてて笑った。
 祈祷所も、守札の授け処もないこの寂れきった神社は、しかしいつ誰が迷い込んでもいいように、澱んだ気配などかけらも感じさせないように、いつ訪ねても暖かく澄んだ気に満ちている。まるで誰かの住まいに迎え入れられたように――人里に比較的近いせいもあるのかもしれないが、何よりここを根城に選んだ弟弟子の性質が、色濃く表れているように鏡花には思われた。人間という種がことさら好きだからと、彼は師や兄弟子たちと離れて暮らす道を選んだのだ。
 「……灯火に、なりたかったのです」
 前髪越しに瞼を押さえて、康成は考え考えしながら口を開いた。
 「あの方が、私にとっての灯火となったように……私もあの方の、そしていずれは迷える人々の、導きの火となれれば、と」
 その瞳の色が、人の身を捨てた康成の今の性質を物語っていた。夜歩きに携える提灯の中で静かに燃える、蝋燭の火の色である。強く念じて見つめた先に、炎の玉を生じることができた。ただ夜道を照らすためだけの、触れても火傷をしないものから、よくないものを浄める炎まで。
 「あの方がいなければ、今の私はここにはおりません。魂ごと喰われて消えていたでしょう」
 「……あなた、もしかしてあの時のこと、まだ気にしているのですか」
 鏡花の背後で揺れていた四本の狐の尾が、ざわざわと震えて逆立った。同時に、つやつやした髪がぶわりと内側から舞い上がり、その合間から一対の獣耳が現れる。
 「あれは、秋声が自分の意志でしたこと――その結果も、すべて秋声自身が引き受けるべきことです。あなたが気に病むことは何もないのですよ」
 康成の瞳は、鏡花の四本の尾を別の色として映していた。雪に埋もれた村から逃げてきた自分を見つけて守ろうとしてくれた、そしてそのために、これまで積み重ねてきた力を大きく減じることとなってしまったひとの、黒に程近い鈍色に。
 「同じことを、あの方も仰っていました」
 僕が好きでしたことだから気にしないで。
 傷ついた息の合間に、彼はそうささやいて康成をなだめた。寒かったでしょう、とまだ小さかった康成を暖めてくれた尾の半分は、人の魂を狙う悪しき妖を祓うために、狐火として燃え尽きてしまったのだ。妖としての狐は、むしろ変化の力をもって相手を惑わすことに長けており、直接妖力をぶつけて戦うのには不向きな種であった。
 『それに時間はたくさんあるんだもの、また地道に修行し直して取り戻すよ』
 鏡花とまた差が開いちゃったのは癪だけど、と優秀な兄弟子を引き合いに出しながら、彼――秋声は気丈に微笑んでみせた。
 「まったく罪悪感がないかといえば、嘘になります。ですがそれ以上に、そんなあの方の隣に長く添いたいと思い……そして気がつけば、輪廻の理から外れていたのです」
 鏡花は長い睫毛に縁取られた瞳を大きく見開いて、康成の綴る言葉に聞き入っていた。彼がこれだけ長く話すのを聞いたのは、きっと初めてだ。普段あまり積極的に喋ろうとしない者がこうして口を開くのは、話題に上った相手について、それだけ思い入れが強いことを示している。
 「……なるほど、よくわかりました。人のみならず誰からも親しまれるのは、あの子の立派な美点ですね」
 あれはすぐに自分を卑下しますから、もっと胸を張るように言い聞かせないと。したたかに笑った鏡花の、獣の耳がぴくりと跳ねる。気高さを含んだ笑みはたちまち、童子のようにあどけないものへと変わる。
 「先生が戻られたようですよ。さあ、箒は一旦こちらへ」
 神楽殿の舞台からすとんと地面に降り立った鏡花は、まるで兎の子のように足取りを弾ませて、一の鳥居へと康成を促した。見下ろせば、大鳥居から続く石段をふたつの人影が昇ってくる。ひとりは帽子の下から豊かな金髪をなびかせた背広姿、その後に紙袋を両手に提げた書生が続く。
 黒髪を風に揺らす小柄な書生の姿を、康成はじっと目で追った。いつも見慣れた袴姿もよく似合っていると思うが、見た目の若々しさを前面に押し出したいでたちは、いっそ愛らしいとまで感じてしまう。
 ふと、書生が片手の紙袋を石段に置いた。倒れて中身がこぼれ落ちないように脚で防御しながら、学帽を脱いで前髪の一房を確かめ、石段のてっぺんを振り仰ぐ。丸眼鏡の奥の涼やかな瞳が康成の姿をとらえて、丸く見開かれる。
 「川端さん!」
 数段上を行く師を追い越さない程度に足を速めた書生の姿は、一の鳥居をくぐり抜けた途端にがらりと一変した。落ち着いた色味の羽織姿に、髪の色と同じ一対の三角耳を生やして、背中で揺れるのはふわふわ膨らんだ鈍色の、二本の尾だ。
 「もう、あんまりじっと見られたら前髪が焦げちゃうじゃないか。気をつけないといけないよ」
 康成の目の前に立った青年は、ちりちりと焦げた前髪の毛先を気にしながら、わざと表情を引き締めた上目遣いで康成をたしなめる。
 出逢った頃は彼のほうが大きく見えたのに、共に過ごすうちにいつしか康成の背丈は彼をすっかり追い越していた。康成を救うために自分の力を投げ打った彼を、守れるようになりたい。その一心で、彼のもとに集うさまざまな妖たちに教えを受けてきた。鏡花も、彼が『先生』と呼んで付き従う妖狐の長も、種族こそ違うもののつかず離れず康成の成長を見守ってくれている。
 「街でお菓子を買ってきたから、一緒に食べよう。紅葉先生にいいのを取られないうちに」
 「秋声! あなたまた先生に向かってそのような無礼を!」
 「……まったく、汝らは幾年経っても変わらぬなあ」
 言い争いながらも、紙袋を半分ずつ手に提げて競うように水屋へ向かう弟子たちの姿を、妖狐の長はからからと笑いながら見送る。街慣れた紳士らしい洋装は山々を彩る深い緑色の着物に変わり、金色の被毛に覆われた耳が陽の光を浴びてまばゆく輝く。背後に広げた九本の尾も堂々としたもので、鷹揚ながらも逆らいきれない威圧感を辺りに漂わせていた。
 「さて、」
 背に滑らせた長い髪を揺らして、紅葉が康成を振り返る。
 「我らも参ろうか、鬼火の子よ」
 着物とお揃いのような紅葉の翠色の瞳は、まだ人の子であった頃、早くに死に別れてしまった父親の記憶を康成に思い出させた。物心つく前のことで顔すらもろくに覚えていないが、もし共に長く生きていればこんなふうだったのだろうか。まじまじと見つめても、強い彼は康成の生み出す火などものともしない。どうかしたのか、と問われて素直に答えると、
 「我が父親とな! これはまた、実に愉快」
 子供のように相好を崩して笑いながら、紅葉は康成の頭上に手を伸ばそうと背伸びをして早々に諦め、
 「汝は上背があるからのう。頭を撫でてやろうにも、手が届かぬとどうにも格好がつかぬな」
 かわりに、大きく広げた手で康成の肩をぽんぽんと叩いた。
 「……ご迷惑では、ないのですか」
 「なに、迷惑などであるものか。汝も秋声に添うておるのであれば我が子も同然、血の縁などなくとも、小さき者を見守る気持ちは人の親と変わらぬよ」
 水屋の隣、集会所として使われていた平屋の窓から、狐の兄弟弟子たちのかしましい声が聞こえてくる。茶を用意するのは兄弟子である鏡花の役割で、重たい卓子を手早く広げるのは、小柄な秋声ひとりでは難しい。
 手伝ってきます、と紅葉にひと声かけて、康成は集会所へと駆け出した。玉砂利を下駄が噛んでつんのめりそうになると、転ぶでないぞ、とすかさず紅葉の声が飛ぶ。
 人としての生を捨てて後悔はないか、という鏡花の問いに、そういえばはっきりとは答えていなかった。後悔などしていない、その思いはずっと変わらない。だが紅葉と言葉を交わしたことで、それを裏付けるものがよりはっきりと見えたように、康成には思えたのだ。
 妖の裔に連なった今でも、この身に向けられる眼差しは変わらず暖かい。この安寧な日々は願えば願っただけ、人の一生よりもずっと長く続くのだ。
 いずれまた訪れるであろう、かつて康成の生まれた村を滅ぼし、秋声の尻尾を奪った厄災が目覚めるときに備えて――はたまた、見つめすぎて秋声の前髪や額を不用意に焼くことのないように。
 そのために己の力をきちんと制御できるようになること、それが康成の当面の目標なのだった。

2022/8/22~のゲーム内イベント『眠れぬ夜の怪談語り』で川端さん&秋声くんが初めて一緒に登場&秋声くんの衣装(獣耳)何事!? ってザワッとなった勢いで書いたもの。
翌週の東京或図書で無料配布していました。
秋声くんが四尾→二尾になった&川端さんが妖になった前日譚とか、数十年後に厄災復活したときの人間側の登場人物とか、ふわっと考えてた記憶があります
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