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 やっぱり、こういうのって、よくないと思うんだ。
 その一言を切り出せないまま、僕は今夜も抱き枕になる。

 よく眠れない、とその人、川端さん、川端康成が僕の部屋を訪ねてきたのは、彼が転生してから数日後のことだった。かつて一時代を築いた――と後の世に名を残した物書きたちが、ふたたび生を受けて暮らすこの図書館で、一番の古株である僕こと徳田秋声はなんとなくの成り行きで、新人の教育係みたいなことをやっていた。
 とはいえ、つきっきりで面倒をみるわけじゃない。館内の施設とか、この新しい世界で暮らしていくうえでのあれこれを、最初の数日間ざっくり説明するだけ。あとは既に転生している知り合いがいれば彼らが細かな世話を焼いてくれるし、仮にいなくても、この図書館で生まれる縁というのもある。だからよっぽどでない限りは、僕にべったりつきっきり、なんてことはない。
 はずだった。
 まだ人も少ない居住棟四階の隅、僕の部屋の扉をほとほと叩く音が止まなくて、せっかく温まった布団から抜け出したのが、すべての始まりだったと言えるだろう。扉を開けると、そこには全身が光を帯びているような真っ白な男が、ぼんやりと立っていたのだった。
 色素の薄い肌に、飴細工のような淡い色の髪。上背はあるのに今にもかき消えてしまいそうなたたずまい。幽霊か雪女か――雪男、というとまた違う生き物になってしまうから――夏か冬ならそんな勘違いを、あやうくしてしまうところだ。だからって、春先でよかったとも言い難いのだけど。
「川端……さん? どうかしたのかい」
「……」
「ん、何?」
 ともかくもその人、川端康成氏はか細い、相対したくらいでは聞こえないような声で、寝付けないのです、といった意味のことをぽそぽそ僕に告げた。消灯してだいぶ経つし、前髪で半分顔が隠れてしまっているので表情もよくわからなかったけれど、とりあえず困っていそうなのには察しがついた。
 困ったね、とそこで呟いたのは、同情が半分、あとの半分は正直なところ、僕自身でもどう対処したものかわからない気持ちの表れだ。睡眠薬のたぐいはそうそう簡単に処方されないらしいし、ホットミルクでもこしらえてあげようにも、食堂で酒盛りしている連中がいようものなら、気持ちの安まりようがないだろう。たとえ僕でも止められる気がしない。
「とりあえず入って。白湯くらいしか出せないけど」
 室内灯では明るすぎて目が冴えてしまいそうだから、枕元の常夜灯をめいっぱい点けて、ポットで沸かしたお湯をすすめた。恐縮しきりといったていで背を丸めて、川端さんは湯呑みに口をつける。
 なぜ、僕を頼ったんだろう。白湯をすする横顔を眺めながら考えた。
 教育係としての僕の仕事は済んで、あとは旧知の、横光さんや菊池さんたちが世話を焼いていたはずだ。食事だって初日から彼らと一緒にとっていたし、僕が関与する余地なんてもうないだろうに……転生した次の日、原稿用紙にみっちりと手紙をもらって、それに返事を返したきりだ。
 かつての僕が書いたものを読んで、ことあるごとに賞賛してくれた。僕がいなくなった後も、僕の足跡を少しでも残そうとしてくれた。いっそ重たすぎるくらいの思慕を、彼は三途の河を往き戻る間も変わらず持ち続けていた。それは確かに、喜ばしいことなのだろう。それだけの長い間、自分のことを好きでいてくれる人なんてそうそういない。
 けれどここに、ひとつの疑念がある。かつての僕、とあえてただし書きをつけたのはそのためだ。
 僕の持ち合わせている前の生の記憶には、ひどくむらがあった。それは晩年にかけてより顕著で、ちょうどその頃に距離が縮まった川端さんのことに関しては、うっすらとしか覚えていない。だからこの世に呼び戻されたばかりの頃、館長が彼の名前を引き合いに出して僕を評したのに、ただもやもやとするばかりだった。
 僕はその人を知っているべきだ、そうでないなんて薄情だと、叫ぶ声が僕の内側にある。館長に言われたときは当の本人は影も形もなかったけれど、いざ彼が転生するという段になって、顔を合わせた弾みで何か思い出せるんじゃないかと、淡い期待を抱きもしたものだ。結局、それは叶わなかったけれど。
 かつての生と今の僕の間にある、記憶の欠落という大きな断絶。それは徳田秋声という人間の連続性をも、断ち切るものなのではないか――疑念というのはそれだ。川端さんが慕う『作家・徳田秋聲』と、今こうして悩む僕は、もはや別人といってもいいくらいの隔たりがある。
 だからこのまま、彼の向けてくれるひたむきな好意に甘んじていてはいけないと思った。どこかできちんと、けりをつけなければ――それがなかなか叶わなかったのは、僕の臆病心がゆえだった。
 川端さんの向けてくれる想いは、僕の身に余るものでありながらも快くて、それを失うのが怖かった。強く暖かなまなざしが自分に向けられなくなったときのことなど、考えたくもなかった。
 けれど、いつかは。
「……徳田先生」
 その『いつか』を定めることができないまま、扉越しに呼ばわる声に、僕は今夜も布団を抜け出て応えるのだ。
 どうも、と軽く頭を下げてみせる川端さんは寝間着の上に茶羽織を引っかけた、あとは寝るばかりのいでたちだ。部屋に上がると彼は羽織を肩から滑り落としてざっくりと畳み、僕がそれを出しっぱなしの卓袱台に置く間に、掛け布団がめくれたままの寝台に腰かける。主人の命令を待つ犬のように、僕が布団に入るのをじっと待つ。
 僕ひとりならともかく、背丈も肩幅も僕よりひと回り大きな川端さんと一緒では、部屋に備えつけの寝台はさすがに狭い。失礼にならない程度に壁際へ寄った僕に、川端さんはぐっと間合いを詰めて腕を延ばす。しっかりと筋肉のついた腕が胸の上に乗って、そのまま引き寄せられ、ようやく落ち着いたと言わんばかりのため息が僕の耳元の髪を揺らす。
 距離が近くないかな、とは思ったけれど、彼を拒むまでには至らなかった。翌朝の彼はずいぶんとすっきりした表情をしていたものだから、添い寝程度で憂いが晴れるのならば安いものだと、その状況をあっさり受け入れてしまったのだ。他のみんなにあれこれ頼まれるのと同じことだと、妙に納得してしまっていたのだ。
 さすがにおかしいと感じ始めたのはしばらくして、彼の書いたものを読む機会があったときのことだ。泊まった先で寝台が足りなくて、横光さんとひとつの床で寝たとかいう――そこで僕はようやく首をかしげた。
 どうして僕なんだろうか。それこそ、横光さんに頼めばいいんじゃないか。あるいは僕が知らないだけで、横光さんの部屋を訪ねている夜もあるのか。
 いずれにしても、僕を頼みにする理由が過去の縁であるのなら、ひとこと釘を刺しておかなければならないだろう。気の利いた昔語りなんてできやしない、期待には応えられない、と。

 ***

 その晩も申し訳なさそうに訪ねてきた川端さんを、僕はいつものように部屋へ上げた。文机の上に、形ばかりはペンと原稿用紙を並べていたけれど、ほんの数文字しか書き進められていなかった。
「……書かれていたのですか」
 彼はそれに目ざとく反応した。静かな調子の声が少しばかり弾むのに、僕は苦く笑うことしかできない。
「なんとなく書き始めただけだから、いつ仕上がるかはわからないよ」
 書き上がったとしても、彼の目に適う出来ではないかもしれない。やっぱり、長々と先延ばしにすることなく、告げるべきことを告げねばならないと、僕は何とはなしに姿勢を正した。
「川端さん」
「はい、」
 名前を呼んだ声は、自分でも驚くくらい低く頑なだった。つられて、川端さんも頬を引き締める。
「川端さんにひとつ、言っておかなきゃいけないことがあって」
「何でしょう」
 眉の曇りに、ちくちくと胸が痛む。けれど引きずった分だけ苦しみも増していくのならば、一日も早く断ち切るべきだと、ひとつ大きく息を吸う。
「僕のことなんだけど」
 切り出したはいいものの、どう進めればいいのかたちまち行き詰まってしまった。この期に及んで、少しでも心証を良く保っておこうとする自分に呆れ返る。君のことはろくに覚えていないのだから、先生先生と懐かれても困る、そう斬り伏せられればどんなに楽か。ランプの灯のようなその瞳の熱に、往生際悪くすがりついてしまう。
「昔の記憶が、ないんだ。抜けているんだ、ところどころ……川端さんと縁があった時分のことは、特に」
 口をついて出たのは、みっともなく切れ切れの言葉ばかりだった。
 しばらく目をみはっていた川端さんは、むしろ安心したような面持ちで、
「ええ、存じています」
 ゆったりとうなずいた。たいてい固く引き結ばれている口元の、両端がほんのわずか上がっていた。戸惑いどころか、僕を責めなじる様子すらもない。泰然の二文字が人の形をとって目の前に座っているようで、むしろ僕のほうがうろたえてしまったほどだ。
「知ってるってどうして、」
「こちらに招かれてすぐの頃、菊池さんからうかがいました」
 別段口止めをしていたわけではないから、菊池さんを責めるのはお門違いというものだ。共通の知り合いという立場上、何かしらの気を回してそうしたのだろうし。
「ならどうして、そんな僕にこだわるのさ」
 川端さんの眉根がぴくりと動いたのに、僕は言葉選びの誤りを悟った。言葉数が少ない分、ほんのわずかな表情の変化が、川端さんの内心を雄弁に物語る。
 きちんと膝の上に揃えた両手に、川端さんはちらりと目を落として、
「それは――」
 それきり、ずいぶんと沈黙が続いた。長い睫毛が何度も瞬きを繰り返す。言葉を発しあぐねて、開きかけてはまた噛み締められる唇は、こうしてみると案外肉厚だ。淡くはかないたたずまいを、重く閉じたそれが現実味のある方向へ引き戻す。
 やがて瞼を上げた川端さんは、
「私が、私であるがゆえです」
 たった一言、そう答えた。
 端的すぎてわからない、胸の内に生まれたそんな反論は、真っ直ぐな眼差しにねじ伏せられる。敵に相対した彼が振るう、穂先の長い二又の槍で心臓を貫かれたみたいに、身動きはおろか吐息ひとつすらこぼせなくなる。
「私のことを覚えておられなくても、ここで日々を過ごされている以上、あなたは私の追い求めていたかの方に相違ありません。ですから、どうあっても惹きつけられてしまうのです」
 当然の道理です。理屈ではないのです。
 川端さんはそう締めくくって、ようやく瞳の力をゆるめて微笑んだ。
 かつての彼がしたこと、『作家・徳田秋聲』の作品を高く評価し、後世にまで残るように尽力した事実。彼にまつわるそれらのエピソードもまた、今の川端さんを形成する材料のひとつであるとしたら、僕の状態がどうであれ、彼が僕に向ける想いは変わらない、揺らがない。そういうことらしい。
 そこまで満ち足りた顔をされてしまったら、邪険になんてできるはずもない。僕だって、かつての僕がそうだったように、余程でない限り相手を見捨てたり縁を切ったり、なかなかできないものだ。
「……川端さんの気持ちはわかったよ。別に、こうやって訪ねてこられるのが迷惑ってわけでもないんだ」
 でもひとつだけ、どうにもすわりの悪いことがある。
 少しだけ高い位置にある川端さんの眼をしっかり見つめて、僕は口を開いた。
「今の僕、先生って柄じゃ、到底ないと思うんだよね。こんななりだし」
 そんなに持ち上げられてはかえって落ち着かない、というのもあるけれど、学生風の衣装が板についてしまう僕を、いい大人がそう呼ぶのはやっぱり違和感が拭えない。
 まじまじと僕を見つめていた川端さんは、やがて大輪の花が開くように頬をほころばせた。
「では――徳田、さん」
 慣れない呼び方が気恥ずかしいのか、白い頬がほんのりと染まっているのがまるきり小さい子みたいで、かわいいな、などと不覚にも思ってしまった。
 母性本能なんてよく言うけれど、どうやら性別関係なしにそれは持ちうるものらしい。

 ***

 結局その日も、これまで通りひとつの寝台にふたり収まったわけだけれど、
「……なんか、近くないかい?」
 仰向けの状態から転がされて、僕のすぐ目の前には寝間着の襟元の合わせ目があった。背中を両腕でしっかり抱え込まれて、寝返りすら打てやしない。寝間着越しに触れ合ったところから、温もりと鼓動が伝わってくる。弁解のしようもない抱き枕状態だ。
 顔を上げれば、川端さんが至近距離で微笑みかけてくるのがどうにも心臓に悪い。当世の言葉で何と言ったか、他人とくっつくのに抵抗のある人とない人といるようだけど、彼は『ない人』なのだろうか。横光さんは誰もが認める盟友だからともかく、他にもこんなふうにした相手がいたのだろうか。胸に沸き起こったもやもやした気持ちを持て余していると、
「何か、お気にさわりましたか」
 声ばかりは遠慮がちに、川端さんの吐息が僕の前髪を揺らす。額にかかる吐息が暖かい。枕元の灯りがなくても、うっすら互いの表情がわかる。こちらの顔色をうかがうような、それでいて身体を離すつもりはなさそうな、どんな答えが返ってくるかをあらかじめ期待している、ちょっとずるい顔だ。そうだね、と即答を避けて考え込むと、小さく息を詰める気配がした。

「強いて言うなら、……案外嫌じゃないのが困る、かな」

追記文章
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